書評:上野善久『戦後日本流通業のイノベーターーファミリービジネスの業種転換事例』

 以前ご紹介した本ですが、日本キャリアデザイン学会の会報「キャリアデザイン・ニュースレター」に書評を書きましたので、ここにも転載しておきます。実は同じ本の別の書評もそろそろ出るのですが、それはまた時期をみて転載したいと思います。

戦後日本流通業のイノベーター ファミリービジネスの業種転換事例

戦後日本流通業のイノベーター ファミリービジネスの業種転換事例

  • 作者:上野 善久
  • 発売日: 2020/08/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 東京駅の八重洲地下街に「玉乃光酒蔵」という酒場があるのをご存知だろうか。その名のとおり、京都の老舗・玉乃光の銘酒が楽しめる店だ。近くには広島県は三原の銘酒「酔心」の名を冠する酒場もある。壁にはそれぞれの郷土料理の献立が書かれた短冊が貼られ、店名の地酒冷一合を頼めば升に入れた小グラスが出てきて、升にこぼれるほどに注いでくれる。今ではあたりまえになったこうしたスタイルの嚆矢となったのが、本書の主人公・上野久一郎が秩父の東亜酒造と組んで出店した「東亜の酒蔵」である。
 近江の造り酒屋の9代目として生まれた久一郎は、大正6年、23歳にして上京して「布屋本店」を設立、酒類卸売業に進出した。新規参入ゆえ、灘や伏見の名門酒蔵ではなく、地方の地酒を扱った。今でいえばプライベート・ブランドであり、それを売るために編み出された久一郎のスタイルは大衆の支持を得た。山手線各駅の駅前の地主たちが次々と久一郎スタイルの酒場を作り、これらの店が久一郎の顧客となる。一種のチェーン展開であり、当時としてはきわめて斬新な経営手法だった。書名のとおり「流通業のイノベーター」となったのだ。本書の前半は、こうした久一郎の一代記である。ミルクホールを経営したり、いちはやく国内でコカ・コーラの販売をはじめたりと、その精力的なアイデアマンぶりはまさにイノベーターと呼ぶにふさわしい。その活躍を支えた近江商人のネットワークや従業員OB会の設立、業界団体の設立といったエピソードもそれぞれに興味深い。
 後半は、久一郎から次男・上野善章への事業承継と、著者のファミリービジネス論にあてられる。善章の経営手法はまずは従業員重視であり、次いで顧客重視であったという。従業員に対しては高給優遇、充実した福利厚生で臨むだけでなく、善章本人もその家族も三食を社員食堂でとるという家族的気風の醸成により、人手不足下にあって優れた人材の定着を可能としていた。顧客に対しては得意先を組織化し、年に一度の招待旅行などで感謝を表し、また支払期日厳守を徹底するなど、長期的な信頼関係を構築していった。
 わが国では、ファミリービジネスや同族経営、あるいはさらに広く「世襲」に対する世間のイメージはあまりよくないのが実態であろう。欧米ではダイナスティはむしろ敬意の対象であるのに較べると、不思議な状況である。しかし、著者が指摘する「事業の永続性への強い意思」は、ファミリービジネスが共通して持つ大きな特徴点であろう。事業をアイデンティティとする一族が、「事業家(じぎょうけ)」として世襲でそれを承継し永続させようという意思が、環境変化に対する柔軟な対応を必然とする。それが、私たちが今日渇望してやまないイノベーションの担い手としてのファミリービジネスへの期待だと著者は指摘する。
 評者の私見ではあるが、「事業家(じぎょうけ)」に生を受けた人材は、やがて自らファミリービジネスを継承することを意識することになるし、そのキャリアも継承者としてのそれとなるだろう。善章は大卒後に布屋本店に入社するが、直後に大阪の同業者に(今でいえば)出向させられて丁稚奉公的に酒販の現場仕事に従事しているのは、いずれ来る事業継承を視野に入れた長期的な経営人材育成であり、キャリア開発であったといえるのではないか。若年期からいずれ経営者となるべくしたキャリアデザインが可能なのも、ファミリービジネスの大きな利点と評者は考える。
 さて本書の著者はその名からも推測されるように善章の長男であり、現在の布屋本店代表取締役である。そのキャリアは、本書の著者略歴によれば英国MBA、三菱総研・ボスコンを経て家業を継承、となっており、これだけでも現代ファミリービジネスの継承者らしいキャリアではあるが、実はこの間に日本ジェノス(現在は合併等を経て東証一部のヤマエ久野の傘下にある)という会社を起業、ワインの輸入販売等で業績・業容を大きく伸ばし、その功績でフランス政府から勲章を受けたりもしている。さすが布屋11代目というべきキャリアであろう。
 この本は、滋賀県の惣領家に残存していた古文書を中心に、さまざまな史料類を探索し、調査・研究した成果であり、その過程がまた楽しいのだが、巻末には郷土史家や専門の研究者らによるコメントも付されていて、その学術的価値も知ることができる。その勤勉さにはまことに頭が下がるものがあるが、これもまた、ファミリービジネスの有する「事業の永続性への強い意思」のなせるわざであろう。やがて、著者の子孫がこの意思を受け継ぎ、布屋本店を永続せしめることを祈りたい。読み物としても非常に面白く、広くおすすめしたい本である。