武石恵美子『キャリア開発論−自律性と多様性に向き合う』

「キャリアデザインマガジン」に書評を掲載しましたので、こちらにも転載します。

キャリア開発論

キャリア開発論

 キャリア開発論(あるいは類似の)は、いまやほとんどの大学で開講されているだろう。本書もその学部向けテキストだが、内容はなかなかにユニークなもののように思われる。
 本書の副題は「自律性と多様性に向き合う」となっており、この2つが本書のキーコンセプトとなっている。まず第1部では、「全体像をつかむ」として、全体の約4分の1くらいを費やして主に「自律性」について述べている。まずはキャリア開発論に関わる基礎的な理論が紹介されていて、米国の主要なキャリア研究が中心だが、人的資本や内部労働市場の理論も敷衍されている。そして、日本企業におけるキャリア形成の過去・現状と今後の展望が述べられ、多様化が進む中で求められる「キャリア自律」の考え方が説明される。
 第2部、残る4分の3は「テーマごとに考える」として、各論が取り上げられる。ここが本書のユニークなところだと思うが、キャリア開発論のテキストではあるものの、主に個人に着目した心理学的な米国のキャリア研究の主流からは完全に外れ、もっぱら雇用政策と人事管理の観点からの記述となっている。こちらの主題は主に「多様性」であり、最初に取り上げられるテーマは「ダイバーシティ経営」だ。
 続けて「正社員の多元化」「ワーク・ライフ・バランス」「女性」「育児期」「介護」「再就職者」とテーマアップされ、さらには「ブラック企業」や「非正規雇用」といった今日的なものまで含めて、多岐にわたる視点があまねく取り上げられている。そういう意味では、アカデミックに汎用的なテキストというよりは、こんにちのわが国における(さらにはある範囲の大学・学生によりよくフィットする)キャリア開発論というピンポイントな本というべきかもしれない。
 本書にもあるとおり、これまでわが国大企業の典型的な人事管理は、労働時間にも勤務場所にも職種・職務にも制約のない無限定で画一的な人材を前提としてきた。ビジネスニーズと社員の能力・適性・希望とをすり合わせつつも、基本的には企業が企業内で個人の能力向上やキャリア形成を行い、社員はそれを受け入れるのと引き替えに、雇用の安定や、夫婦子2人の生活をおおむね充足する労働条件を得てきた。しかし、少子高齢化と人口減少をはじめとする社会変化のなかで、これまでの画一性は崩れ、多様性にとって代わられようとしている。となると、企業もこれまでのように、大半の社員の能力向上やキャリア形成を企業内で請け負うわけにはいかなくなるだろう。そこにキャリア自律の必要性が生まれる。
 現実をみると、長年にわたって継続してきたこうした人事管理の慣性はなかなかに大きいし、従来型の働き方を望む人というのも少なくはあるまい。しかし、これから長期にわたる現在の学部生の職業キャリアの中では、すべての人ではないまでも、多くの人がキャリア自律に直面することも確実なように思われる。それを学ぶことはきわめて有意義なことであろう。
 それに加えて、この本で「キャリア開発論」を学ぶメリットは少なくとも3つはあるように思う。第1に、この本がもっぱら職業キャリアを中心に書かれていることだ。もちろん、キャリアは職業キャリアだけではないが、しかしキャリア開発論を学ぶ学部生にとって、就職と仕事はなんといっても最大の関心事だろうから、やはり職業を中心としたテキストが学びやすいのではないかと思う。実際、この本ではさまざまなライフステージにおける職業キャリアを学ぶことで、生活者としてのキャリアもかなりの程度展望することができるように書かれている。
 第2に、本書の内容が実践的なものとなっていることがあげられる。上で紹介した本書の各論テーマは、学生にとってはいずれも自身が当事者となる、きわめて実践的なテーマであるに違いない(直接的には女子学生に関わるテーマもあるが、男子も結婚などを通じて当事者となりうるものだ)。つまり、テキストとしてだけではなく、一種の実用書としても有用だということになる。
 第3に、本書、特に各論の記述が、実証研究(大半は著者自身の調査)をふまえたものであることを上げたいと思う。これは本書を説得力あるものとしているだけではなく、エビデンスベースの議論の大切さをも学ぶことができるのではないかと思うわけだ。
 こうした特色は、当代一流の労働研究者であり、また元労働官僚でもあるという著者自身のキャリアによるものであることも言うまでもあるまい。わが国の今日的な状況をヴィヴィッドに切り取った本でもあり、著者にはぜひきめこまかく改訂を行い、環境変化とそれをふまえた新たな研究成果を反映してほしいと思う。