SNSの発信を控えているのでまたぞろいただきもの御礼ばかりが続く展開になってしまっておりますが、たまにはエントリらしいエントリも書こうかということで書きます。いや今週月曜日の日経新聞に掲載されていた、例の出口治明氏の連載コラム「ダイバーシティ進化論」なんですが。お題は「日本型雇用の限界 転職で待遇改善を」となっておりますな。
非正規社員と正社員の待遇格差を巡る訴訟で、最高裁判決が相次いで出た。働き方について、日本ではメンバーシップ型とジョブ型の2種類があるように捉えられている。だが、世界を見ると仕事は基本的にジョブ型だ。ダルビッシュ投手に「今後の経験のために来年はショートを守ってくれ」などと誰も言わない。
(令和2年11月16日付日本経済新聞朝刊から、以下同じ)
枕で先日の最高裁判決が出てきて「お、非正規雇用の話かな?」と思うわけですが、以下の引用をごらんになればお判りのとおりその後は一切その話はありません。いきなり何なのさこれ。続けて「世界を見ると仕事は基本的にジョブ型だ」というのはいいとしても、雇われてもいないダルビッシュ投手をジョブ型の例に引くってのもどうよ。しかもこれ島津製作所の田中耕一氏にロケット技術をやれとは誰も言わない、というのと同じようなレベルの話だからな。気の利いたことを言っているつもりなんでしょうがいきなり破綻しています。
メンバーシップ型は戦後の人口増と高度成長を前提にした日本特有の働き方だ。会社も成長するから人手が足りず、新卒で採用した若者が途中で辞めると困るから終身雇用という仕組みにした。社員を一生抱え込むならいろいろな仕事をさせたほうが都合がいいとゼネラリストを育てたわけで、ジョブ型に対する普遍的な働き方ではない。
社員の様々な雑務や役割をどう評価するかは難しく、横並びで係長、課長と昇進させた。一方、ジョブ型であれば自然と同一労働同一賃金に導かれる。皿洗いの仕事で採用されたとき、年配だからといって賃金が上がるはずはなく、むしろ洗うスピードが遅ければ賃金は下がる。
へええええ。「一方、ジョブ型であれば自然と同一労働同一賃金に導かれる」んだそうで、この一言で賃金差別を解消するための戦いをすべて葬り去りましたよ。いやそれは紙幅の関係もあるでしょうし口頭ならその場の勢いといったものもあるでしょうがしかしダイバーシティ進化論を称するならそれじゃいかんだろう。いや本当になぜこの人が得々とダイバーシティを語るのか私には理解不能です。
皿洗いの例もうまいことを言っているつもりなのでしょうがあまりうまくなく、そもそも皿洗いはジョブではなくタスクでしょう。仮に大きなお店でひたすら皿洗いだけをしている人というのがいたとしても、そういう人を評価して賃金を上げ下げするなどという手間はかけないはずです(実際欧米のジョブ型雇用には人事評価がないことも多い)。団体交渉で賃金が上がる可能性はありますが。
なおメンバーシップ型が高度経済成長期に非常によく機能したことは間違いありませんが、人口増は直接は関係ないんじゃないかなあ。もちろん人口増が経済成長をもたらしたことは間違いないでしょうが。
人口増と高度成長というメンバーシップ型雇用の前提条件はすでに崩れている。しかも、最近の新入社員で同じ会社に一生勤めようと考えている人はあまりいないという調査結果もある。転職するには自分に何ができるのかをはっきりさせる必要がある。労働の流動化と共に仕事は専門化し、ジョブ型が浸透することは明らかだ。
時代の変化を待っていても、そのスピードは遅い。だから今の会社や仕事に不満があったら、転職することを勧めたい。戦国武将の藤堂高虎によれば「七度主君を変えねば武士とはいえぬ」。変化の激しい時代には自分の能力を評価し、働きに見合う給与を出してくれる企業や経営者を次々探すことが大切だ。
これもねえ、知られるとおり藤堂高虎は築城の達人であり、城を築きたい大名に乞われて次々と仕えたわけなので、一般化するのはやや無理があると思います。それを目指そう、というのは立派な志だと思いますし大学の学長先生らしくもあると思いますが、メンバーシップ型の前提がヘチマとかジョブ型が浸透が滑った転んだという話とは結び付かないよねと。
ある大学病院の眼科での話だ。上司は患者の全人格を見るものだと考え、視力検査をスタッフに任せることを許さなかった。このため医師は視力検査から診察まで全てをこなさなければならず、忙しくて研究する時間が取れない。そんな中、納得がいかない1人の医師が病院を辞めた。すると他の医師も「辞めていいんだ」と半分くらいが次々と辞めていった。
結果、眼科は回らなくなり、検査はスタッフが担うことになった。辞めることで人は幸せになり、職場がホワイト化したわけだ。
まあこれはジョブ型とはそういうものだという話ではあります。日本では大卒の総合職であっても当初は営業などの現業回りの仕事をさせて現場への理解を形成しようとするのに対し、欧米ではエリートは最初からエリートの仕事をするわけです。ノンエリートの仕事をせずにすむように多大な努力と高額なコストを費やして学位を取ってエリートになるわけで、日本企業がそういう人まで日本の新入社員と同じように扱うと「キャリアが見えない」と言って退職してしまうというのは、まあよく聞く話です。そちらのほうがグローバルスタンダードであるわけで、そちらがいいのだというのは一つのご意見でありありうる考え方でしょう。
(なお質的ではなく量的な問題という話はもちろんありますが今回は省略)
ただまあこのコラムを読んでいると、さきほどの皿洗いもあることながら、この眼科の事例といい、「雑務や役割をどう評価するかは難しく」の「雑務」といい、ノンエリートの仕事を見下した「職業に貴賎はありますよ」という価値観があからさまに見えるように思われ、どうにも好きになれません。ああさすが「高卒不要論」の人だねえと思うわけだ。最初に非正規の最高裁判決を持ち出しているんだから非正規の待遇改善の話とかもしたらいいんじゃねえか「ダイバーシティ進化論」なんだからさあ、とか思うわけですがそういう展開にはならないんだよなあ。
でまあ毎度書いておりますが出口氏はご多忙を極めておられるはずなのでこのコラムも他人に書かせている可能性は高く、おそらくは「エリートさえ幸せになればいいのだ」という人が書いているのだろうなあと邪推することしきり。思ってもいいけど新聞紙面で世間に発信するのはいかがなものか(お、使ってしまった)とは思うわけで、いや本当になんとかならんものか。