経済論壇からby大竹文雄先生(1)

日曜日の日経新聞の連載「経済論壇から」、25日は阪大の大竹文雄先生が登場しておられます。大竹先生の執筆はこれが最終回のようで、残念です。今回のお題は「格差に影落とす「国際化」」というもので、なかなか興味深い論説が紹介されていますので、若干の感想を書いていきたいと思います。

 今ではすっかり年中行事になった春闘だが、ストを背景に大幅賃上げを獲得できた頃の労働者の一体感はもはや存在しない。労働組合の存在感は政治的にも随分小さくなったように思える。この原因を政治アナリストの伊藤惇夫氏(文藝春秋4月号)は次のように分析している。
 かつての労働運動は貧しさや厳しい生活環境から抜け出すため、「勝ち組」である経営者側から少しでも多くを奪い取るための闘いだった。ところが、大企業の正社員と官公労働者が大半を占める連合の組合員は、社会構造の変化によって、いつの間にか日本社会の中で「勝ち組」の位置に押し上げられていた。その結果、春闘は一部大手企業の「勝ち組」労働者だけが恩恵に浴する内輪のイベントとなり、多数派である未組織労働者の共感を得られなくなった。
(平成19年3月25日付日本経済新聞朝刊から、以下同じ)

この論説を読んだわけではないので、この紹介を読んだだけのまったくの感想ですが、「大企業の正社員と官公労働者が大半を占める連合」ができたのが1989年ですが、実はそれから連合の構成員の内訳はそれほど大きく変わってはいません。むしろ、パートユニオンなどを取り込んで組織のウィングを広げていますから、連合の組合員が「日本社会の中で「勝ち組」の位置に押し上げられ」というのは連合に対してやや気の毒なのではないかという気がします。
まあ、非組織労働者の位置が相対的に低下した、という意味では「押し上げられ」なのかもしれません。実際、かつては連合春闘の成果がいわゆる「世間相場」となり、非組織企業にも波及していくメカニズムがありましたが、1990年代なかば頃から、金属労協官公労の賃上げ率と中小の賃上げ率の乖離が目立つようになり、連合も波及効果の低下を認めて中小春闘への取り組みを強化しはじめています。その結果論でみれば、「勝ち組」「負け組」という二分法が流行しているここ数年の気分をとらえた表現といえるかもしれません。
ただ、2000年代に入るころには大企業でもベアゼロが続いたわけですから、「一部大手企業の「勝ち組」労働者」も春闘の「恩恵に浴する」ことができたとはちょっと言いにくいように思います。伊藤氏の論法でいけば、この間も連合は立派な成果をあげたことになるでしょうが、さすがに連合はそうは思ってはいないでしょう。
また、こうした波及効果の低下は、ひとえに長期にわたる経済低迷とデフレ、さらには、後段で述べられるグローバル化などの結果、中小企業の賃金引き上げ余力が失われたからにほかなりません。また、技術的には、中小企業では賃金制度が整備されていないことも多く、その結果として定昇を確保できないケースが多発したという事情もあるでしょう。

  • この間、経営者が従業員に向かって「会社の経営状況はわかっていると思う。申し訳ないが、今年は全員昨年と同じ賃金でがまんしてほしい」と頭を下げる、というケースは珍しくなかったと思われますが、これはベアゼロどころか、定昇もまったく実施されていない「賃下げ」となります。

したがって、昨年、今年の春闘においては、ふたたび中小が大企業についてきはじめています。今年は中小がキャッチアップするケースも少数ながらみられはじめました。ことによると、世間相場や波及効果といったものが部分的にでも息をふきかえす可能性もあるのかもしれません。
まあ、大幅賃上げを獲得できた頃の労働者の一体感はさすがに望むべくもないでしょうし、組織率の低下や、さらに深刻な組合員の参画意識の低下にともなって、労組の政治力が低下していることは間違いなさそうに思えますが、それが90年代なかばに春闘の波及効果が低下して、その結果「未組織労働者の共感が得られなくなった」からかどうかには疑問があります。実際には、労組の政治力の低下は、勤労者の生活水準が向上するにつれて進行し、1980年代にはすでにその傾向は明らかになっていたのではないかと思います。それが連合結成の原動力ともなり、一時は細川非自民・非共産連立政権の樹立にまでつながりましたが、結局細川内閣も短命に終わったことで、労組の政治力の後退は決定的になった、すなわち、春闘が「内輪のイベント」になる前にすでに労組の政治力は現状並に低下していたと思うのですがどんなものなのでしょうか。

 労働組合の影響力低下とほぼ同時に生じたのが、「左翼」の影響力低下である。東京芸術大学助教授の毛利嘉孝氏(論座4月号)は、「左翼」という言葉が大衆の支持を失ってしまった一つの理由に、産業構造が変化したために、マルクス主義的な左翼運動を規定してきた「階級」の概念が変容してしまったことがあるという。既存の労働組合の活動主体だった正規労働者、いわゆる正社員はサービスや情報、金融などの新しい産業が中心になるにつれて、既得権益の受益者になってしまった。代わりに搾取の対象となっているのは、非正規労働者で、左翼の支持基盤は新しい、より厳しく搾取された階級の敵になってしまったという。

これまた論説を読んでいないのでなんとも言えないのですが、日本の労働運動、とりわけ金属労協などの民間労組においては「労使協調で生産性向上を推進し、その成果を適正配分する」という「生産性運動」が主流になっているわけで、その時点ですでに(共産党系労組などの)古典的な「左翼」の範疇を(たぶん)逸脱してしまっていたのではないでしょうか。その過程で、生産性運動の成果とともに「左翼」的な闘争的労働運動の限界があからさまになってしまったことが、おそらくは「「左翼」という言葉が大衆の支持を失ってしまった」ことの最大の理由ではないかと思います。もちろん、最近でも個別には日本マクドナルドのようなケースは少なくないでしょうが、それが右だの左だの言って大きく政治化するまでには至っていないように思われます。
また、非正規社員を「より厳しく搾取された」被害者として政治的に「階級」として一括し、非正規の多様性を捨象してしまうのも無理な議論のような気がします。少なくとも、「非正規」の多くが「正規」になることを望んでいる、つまり多くの「非正規」の人にとっては階級の否定ではなく階級移動が目的になっているという文脈の中では、「非正規」を一括して政治運動に結びつけることは不可能なように思えます。まあ、このあたりは私も不勉強なので、まったくの印象論ではあるのですが。

 正社員が既得権益を守る立場になった経緯を人事コンサルティング会社経営の城繁幸氏(VOICE4月号)は次のように述べている。
 バブル崩壊で継続的な成長の見込みがなくなった日本企業は、労務戦略の大幅な見直しを迫られた。しかし、問題は、日本には「一度上げてしまった序列も賃金も、引き下げるという慣習がまったく存在」しないことだった。賃下げのため、日本企業がとったのは「年功序列的」な対策だった。既存の中高年世代の賃金には手をつけず、ひたすら若者の昇給昇格を難しくし、企業は非正規雇用という形で低賃金で若者を抱え込んだ。
 これを是正するには既存の賃金体系にメスを入れられるようにすること、つまり、解雇権を含む労働条件の不利益変更を大幅に緩和する以外に道はないというのが同氏の意見だ。

城氏が富士通での就労経験をもとに富士通のことをあれこれ言うのはなんらかまわないと思うのですが、それを根拠なく世間全体に一般化しているのには目に余るものがあります。「日本には「一度上げてしまった序列も賃金も、引き下げるという慣習がまったく存在」しない」というのにはなにか根拠があるのでしょうか。一定年齢になると役職を取り上げて序列を引き下げたり、賃金もがくっと下げるような人事制度を持っている企業であれば、私はたくさん知っていますし、出向したとたんに賃金は半分で賞与は3分の1、なんて話も、話半分としてもたびたび耳にするのですが…。「既存の中高年世代の賃金には手をつけず、ひたすら若者の昇給昇格を難しくし」というのを読んで、「おかしいな、私は賃金に手をつけられたが」と思う中高年世代の人も多いことでしょう。「ひたすら若者の昇給昇格を難しくし」ということですが、これを読んで「若者」に昇進で追い抜かれた屈辱を思い返す中高年も少なくないでしょう(まあ、マクロでは若者の昇給昇格が難しくなっていることは事実だろうとは思いますが、それは中高年だって厳しくなっているだろうとも思いますが…)。
率直に申し上げて、大竹先生ほどの見識ある研究者が、どうして城氏のようなイカサマ師(失礼)をわざわざ取り上げるのか、理解に苦しみます。世間ではこういうものにも一定のニーズがあるだろうというのはわかりますが…。
なお、「企業は非正規雇用という形で低賃金で若者を抱え込んだ」のを是正するには「解雇権を含む労働条件の不利益変更を大幅に緩和する以外に道はない」というのは、前の論説の流れでいえば「階級破壊」で、正社員をやっつけて職とカネを取り上げ、それを非正規雇用の若者で分け取りしようというきわめてアナーキーな左翼思想(笑)ともいえそうで、こんなところに毛利氏の待望する左翼が存在するというのはまことに興味深いものがあります(笑)。
かなり長くなってきましたので、後半は明日書くことにします。