問い直される「企業支配」

日経朝刊の「経済教室」では、村上ファンド事件などを受けて「資本市場と企業統治」のシリーズが組まれていますが、今朝はその最終回として伊丹敬之一橋大学教授の「問い直される「企業支配」」という論考が掲載されています。

…企業の支配権とは、たんに企業財産の処分権だけに止まらない意味をもつ。企業とは、財産の集合体であると同時に、そこに働く人々の人間集団であり、共同体でもある。だから企業支配権は、その人間集団の運命を左右する権力をも意味することになる。
 その支配権を自由に売買する市場が株式市場である。その自由な売買の結果登場する投機家が、人間集団の運命を左右する権力を手に入れ、そこから生まれる脅しの影響力を利ざや稼ぎのガバナンス圧力として使うことを許してしまっている。
 問題の本質は、市場取引をきちんと行わせるためのルール作りではない。企業を支配する権力を投機家が持ってしまうことを可能にする、市場のあり方と会社法のあり方なのである。
 恐らく会社法自体に、株主にしか支配権力を与えていないという本質的欠陥があるのである。…
 そしてさらに深く考えれば、人間集団の運命を支配する権力である企業支配権が自由に市場で売買されていいのか、という問題に行きつく。それは、ヒトの運命を支配する権力を市場で売買することが許されるか、という問題である。
(平成18年6月20日日本経済新聞朝刊「経済教室」から)

投資家(投機家)の立場からはいろいろと反論もあるのだろうと思いますが、ニッポン放送阪神電鉄の労組の動向を見るまでもなく、労務屋の立場からはまずはまったくもって同感という感想です。


伊丹氏はここでは「百歩譲って株主にしか支配権力を与えていないという欠陥は仕方ないと認めたとしても、会社法の理念的強化は不適切かつ危険」ということを結論として述べておられ、じゃあどうするんだ、ということまでは言及していません。これについては、伊丹氏はかつて著書『日本型コーポレートガバナンス』で、ドイツの労使共同決定制を参考として、株主と従業員とを「コア」「ノンコア」に分け、「ノンコア」の権利を制限するという提案をされています。これが一応の回答ということでしょうか。
(刊行当時に書いた書評がhttp://www.roumuya.net/shohyo/nihoncg.htmlにあります)
今のところ私は、いかに企業が人間集団であり共同体であるからといっても、日本でドイツの共同決定制のようなものを導入するのは経営規律の弛緩や意思決定の遅れといった経営上深刻な問題につながりかねず、伊丹氏の提案はこの点で若干行き過ぎという感想を持っています。やはり、この部分は百歩譲って株主にしか支配権力を与えていないという欠陥は仕方ないと認めるしかないような気がします。その上で、株主を「コア」「ノンコア」に分けて、後者の権利を大幅に制約することが適切ではないかと思います。労働者の企業統治への参加は、ニッポン放送阪神電鉄でまさに起こったように、労働組合の活動や労使協議制などを通じて実現していけばいいのではないでしょうか。それでも相当の発言力は確保できるはずです。

日本型コーポレートガバナンス―従業員主権企業の論理と改革

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