追記

hamachan先生からTBをいただきましたので、お返事を。
まず、

どうも、ここで批判されている「日本のあり方を否定して海外に範をとろう」とする「社民主義者」にわたくしも含められているようですので、わたくしの基本的な考え方を申し上げておくのも無意味ではないと思います。

とのことなのですが、私がここでもっぱら念頭においているのは、この本で紹介されているような歴史や経緯を軽視ないし無視して「日本の雇用慣行に根本的な問題がある」「抜本的な改革が必要だ」と唱える「自由主義者」「社民主義者」であって、濱口先生も最後に「もちろん、そういう「乱暴」な人々もいますけれどもね。」と書いておられるような、まさに「そういう「乱暴」な人々」です。まあ社民主義者は具体名は挙げませんが、自由主義者でいえばたとえば池(ryということで濱口先生や、自由主義者であれば八代尚宏先生(カナダ型を提唱しておられます)のような方は含んでおりません。まあ現に濱口先生がそのように受け取られたということなので、それについては私の文章力不足を率直に認めて自己批判しますが。
ですから、濱口先生が私について

 労務屋さんは「日本的雇用慣行」とそれ以外で分けて、前者を守るのか否かで基本的な分類をしておられるようなのですが、

と書かれているのも私としてははなはだ不本意で、ここでの私の「基本的な分類」は「この本で紹介されているような歴史や経緯をどう考えるか、重視するのか軽視するのか」であって、まあ乱暴な二分法であることは認めますし、濱口先生が異なる読み取りをされたのは私の文章がまずいからだと言われればそのとおりと申し上げざるを得ないわけでもありますが、しかし私としては今のままの日本的雇用慣行を守るか否かで「基本的な分類」を行っているわけではありません。歴史的経緯を考慮すれば、日本的雇用慣行を簡単に全否定するような議論はできませんよね、ということを申し上げているに過ぎません。
ですから、

 いつの時代であっても、その時代の状況により適合した「企業にとっても労働者にとってもウィン・ウィンの関係」をどう構築できるかという問題を一歩でも二歩でも解決するために、労使始め多くの人々が知恵を絞っているのではないでしょうか。
 たまたまある時代環境の中で、当時の労使が「自由な市場と生身の労働者との矛盾をどうするかという問題」を解決するために、その時利用可能な素材を駆使して創り上げた「日本的雇用慣行」という一作品にこだわることよりも、それによって解決しようとした普遍的な課題を、今の日本の時代状況の中で利用可能な素材を使ってどういう風に解決できるか、という風に、問題を設定した方が、より適切であるように思われます。

というのも基本的には同感であり、かつ私が業務を通じて日々実践している(つもりの)ことであって、あたかも私がそうでないかのように書かれたのは正直なところあまりうれしくありません。私はここで現在のままの日本的雇用慣行に問題がないとか、変える必要がないとかいったことは一切書いていないと思います。いやたしかにここでは変えるべきだと明示的には書いていないかもしれませんが、しかし「これからも試行錯誤しながらベスト・プラクティスを追求していくべきだ」という文意は読み取れるように書いていると思うのですが。
濱口先生と私の意見が異なっているのは、15年前に旧日経連が「新時代の日本的経営」で示した考え方(これ自身、旧日経連のアイデアというよりは、当時進み始めていた方向性を追認した性格が強いのですが)について、濱口先生が「処方箋を間違えてしまった」とお考えなのに対し、私は処方箋は基本的には間違っておらず、ただ一部の処方が思ったように効かず、意図せぬ副作用が出ていると評価しているところなのでしょう。したがって問題があることは明文で認めていますし、それを改善すべく努力することを「できませんなどとは」「とても言えない」とも書いております(いや本当にできるかどうかは別として、とにかく努力はします)。
ですから、それをもって濱口先生が「「日本的雇用慣行」という一作品にこだわる」と言われるのであればそれは受け入れるところです。最近では「こだわる」という語がいい意味で使われることも多いですからね(笑)。そのこだわりの背景に、「諸先輩への敬意」といったいまひとつ科学的でない理由があることも認めます。私たち現場の実務家にしてみれば、多くの実務家が知恵をしぼり議論を重ねて達した一応の結論を尊重しなければ仕事ができないという面は多かれ少なかれありますので。もちろん、成果主義みたいにそれで失敗することもある(いやあれは本当に実務家が知恵をしぼり議論を重ねる努力をしていたのかどうかという大いに疑問はあるのですが)わけですが、それも貴重な試行錯誤の経験として生かしていくしかないわけです。