牛越博文『医療経済学入門』

「キャリアデザインマガジン」第97号に掲載した書評を転載します。

医療経済学入門

医療経済学入門

 平成20年3月25日に開催された参議院予算委員会公聴会でこんな一幕があった。登場人物は医師である民主党の櫻井充参議院議員と、公述人として招かれた中林美恵子跡見学園女子大准教授の二人。ちなみに中林准教授は翌2009年の総選挙に民主党から立候補して衆議院議員となっている。
○櫻井充君 …医療や介護の部分というのは、いたずらに抑制するのではなくて、やっぱり公的分野がドライブを掛けるような形にしないといけないんじゃないのかなと、そう思いますが、その点についてまずいかがですか。
○公述人(中林美恵子君) …社会主義体制で、すべて税金で集めたお金を産業の中に流し込んでいくのか、そしてそれが一番効率のいい社会の経済の在り方なのか、これは、言ってみれば、限りなく社会主義に近い方向になっていく可能性が残っていると思います。それとも、政府が税金で集めたお金を分配するという作業はある程度の限度にとどめておいて、その先をある程度自由に活性化される経済をデザインしていこうというふうに考えるのか、この辺が大きな違いになってくると思うんです。…
○櫻井充君 僕は社会主義政策、悪いと思っておりません。つまり、全部が僕は社会主義だと言っているわけではなくて、医療の分野は社会主義の方が効 率的ではないのかと思っているだけの話です。…
 救急医療体制の不備、産科や麻酔科の医師不足、勤務医の過重勤務といった問題が顕在化するいっぽうで、医療保険財政は火の車であり、わが国の医療は危機的な状況に陥りつつあるといわれる。健康や生命はかけがえのないものだが、無際限に資源を投入することもできない。医療資源の適切な供給と配分を促し、効率的な医療を実現することが急務だが、これは極めて困難な課題でもある。
 いっぽう、昨年(2009年)運用が始まった後期高齢者医療制度は、開始後まもなく「年金から保険料を天引きするのはけしからん」「ただでさえ少ない年金がさらに減らされた」といった低次元な批判にさらされた。民主党はその廃止を公約に掲げたが、制約の多い中で代案がそう簡単にみつかるわけもなく、現状ではその維持を余儀なくされている。医療問題には、きわめて複雑で難しい問題であるが、身近で大切な問題であるだけに感情的な議論に流れやすいという特徴があるようだ。
 これを克服するにはどうしたらいいのだろうか。一般的に、経済活動の効率化のためにはマーケットメカニズムが有用であり、経済学の知見を生かすことが必要となる。医療サービスにもマーケットは存在するが、公共性が高いだけでなく、需要の価格弾力性が低い、情報の非対称性が大きいなど、経済活動としてはかなり特殊な事情が存在する。それゆえに価格(診療報酬)が公定されているなどの規制も多く、それが医療の効率性を損ねているとの批判もある。こうした中で、もっとも最適な資源配分を実現する制度設計を考えていくためには、医療マーケットのメカニズムに関する医療経済学の知見を活用することがきわめて重要であろう。
 この本は書名のとおり医療経済学の入門書である。第I部は医療経済学の概説であり、概論に続いて患者・病院、地域、国レベルでの医療マーケットの理論が、応用ミクロ経済学のテキストの常道として、まずミクロ経済学の基本的な考え方を解説し、次いで医療の特殊性を織り込むというスタイルで記述される。第II章では、医療保険の概説に加えて、医療機関の資金調達について述べられる。第III章では、医療経済学の考え方をふまえて、今後の医療制度のあり方について考察される。
 この本を通読すれば、なぜ医療制度がこうなっているのか、経済学的な背景が理解できるだろう。つまり、医療制度について科学的な議論をする上で必須の経済学的な知識は一通り得られるということだ。医療に従事する人や、これから医療制度にかかわろうという人には非常に有益な一冊であると思う。
 経済学の入門書というものは、どうしても数式やグラフを頻繁に用いざるを得ないので、入門書でありながら慣れない人には読みにくいことが多い。この本も例外とはいかないのだが、しかし初学者でも読みやすく理解しやすいようにとの著者の配慮は随所で感じられる。これはおそらく、医療を科学的に議論してほしいとの著者の切実な願いによるものだろう。多少の苦労はあるかもしれないが、恐れず手にとってみてほしい。