稲葉振一郎「オタクの遺伝子」

稲葉先生の本、中国出張に持参してようやく読了。

オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界

オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界

SFともまんがとも(たぶん)オタクとも無縁な私としては、出発前に長谷川裕一という人の作品を一つくらいは読んでおこうと思ったのですが・・・。

「あのすいません、長谷川裕一のまんがを探してるんですけど」
長谷川裕一、ですね。長谷川裕一の何をお探しですか?」
「えーと何でもいいんですけど」
(しばしデータベース端末による検索)
「申し訳ありません、長谷川裕一の本はいくつか出てはいますが、店頭にはないようでお取り寄せになりますが・・・」

うーむ、一般的な書店にはふだんは置いてないようなまんが家なのだとは思いませんでした。まあ、だからこそ「オタク」なのだ、ということなのかもしれませんが・・・。というわけで、こんな状況で読んだのではおそらく内容の1割も理解できないだろうと思いましたが、それはもう仕方ないということで割り切って読みはじめました。ところが、前半は対談になっていて読みやすく、しかも膨大な注が付されていて、対談を楽しく読み進めるうちに、後半の稲葉先生による論評を読み進めるために必要な情報、たとえば長谷川裕一とその周辺、時代背景などといったものががある程度理解できるようにくふうしてつくられており、思った以上に面白く読めました。
それでも長谷川作品をまったく読んだことがないのですから、まあ1割か2割くらいの理解でしょうか。そんな調子なので的外れではあるでしょうが、一応感想も書いておきます。内容の論評なんてとてもとてもとても…できないので、本当に素朴な印象の感想です(汗)。


前半の対談の中で、長谷川氏の作品に対する稲葉氏の「読み」が長谷川氏自身を驚嘆させる場面が何度かあります。これから察するに、後半の論評のなかでも、おそらく稲葉氏は作者自身すら意識的には意図していないような文脈を析出したり、解釈を提示したりしているのでしょう。私は「オタク論」についてなんらの理解もなく、一介の市井人(?)らしく(?)「オタク」=「執着・妄想」という第一印象(偏見)を持っているだけですが、稲葉氏のこの徹底した読み、思考には、こうした「オタク」の一般的理解、「執着・妄想」と(距離はあるものの)連続するものを感じてしまいました。もちろん、きわめて先鋭的かつ高度にソフィスティケイトされたそれ、としてなのですが。こんなことをいうと、長谷川氏のあとがきのように、「おれはオタクじゃない」と叱られてしまうのでしょうか?。
そして、もし(違うのかもしれませんが)こうした稲葉氏の論評のような世界が究極の?「オタクの楽園」なのだとしたら、たしかにそれに対して、作者の意図を超えた深読みなど「妄想」であって無意味、といった批判的意見を持つ人もきっと多いのでしょう。しかし、感想なので好みの世界にしか過ぎませんが、日ごろ「言葉は魂」であり、「生きることは考えること」であると思っている私は、材料がなんであれこうした徹底した思考というのは、徹底した思考であるゆえに「不毛の荒野」ではないと思います(だいたい、作品というのは、作者の手を離れてしまえば、たとえば文学なら読者、音楽なら演奏家や聴衆の自由な解釈に相当程度委ねられるわけですし、SFまんがだってきっと同じことなんじゃないでしょうか、たぶん)。
というわけで(どういうわけだ?)、この本を読んで大いに長谷川裕一(とSFまんが(とオタク))に関心を持った私は、思わず「クロノアイズ」と「クロノアイズ・グランサー」をbk1で注文してしまったのでした。とにかく読者を一人は増やしたわけですから、作家論の本としては一定の成功は収めているということではないでしょうか。SFまんがを読むのはたぶん30年ぶりくらいだろうと思うのですが、はたして私の中にも眠れる「オタクの遺伝子」が潜んでいるのかどうか?たのしみたのしみ(笑)。