内部留保で雇用確保

いろいろなネタがありましたが、まずはきのうの夕刊のこれから。

 河村建夫官房長官は五日午前の記者会見で、派遣社員の雇い止めなど深刻化する雇用問題の対応策として、企業側に内部留保を活用するよう求めた。河村長官は「企業はこういう事に備えて内部留保を持っている。こういうときに活用して乗り切っていくべきだ」と強調した。
(平成21年1月5日付日本経済新聞夕刊から)

これまでも「内部留保を取り崩せば賃上げは可能」といった主張は繰り返されてきましたので、この手の意見が出てくること自体はそれほど驚きではないのですが、それではこれがどれほど現実的に可能かといえば、言うほどには簡単ではありません。
私は会計にそれほど強いわけではありませんので間違いもあるかもしれませんが、内部留保というのは基本的にはフローの概念で、未処分利益から配当や役員賞与などの外部流出を除いた、内部に残すもののことでしょう。この利益処分は株主総会の承認を要しますので、株主の意志を無視することはできません。株主がなぜ利益を全額配当せずに内部留保することを承認するかというと、建前としては「来期以降利益が減少した場合にも安定配当を行うため」というのもあるでしょうが、現実には内部留保が再投資されて来期以降さらに増益、増配が望めることや、財務体質が安定・強化されて中長期的な株主価値の安定・向上につながることを期待しているからだろうと思います。
毎期の内部留保が積み立てられたストックが準備金で、これは貸借対照表に出てきますが、このうち法定準備金を除いた任意準備金(と資本剰余金)のことを指して「内部留保」ということも多いようで、「内部留保を取り崩せば賃上げは可能」という主張もそういう意味でしょうし、河村官房長官も「内部留保を持っている」と言っていますから、ストックとしての内部留保を意識しておられるのでしょう。
そこで河村官房長官発言ですが、まず気をつけなければいけないのは、そもそも内部留保は有限であって、積み立てないかぎりは取り崩した分は減少します。内部留保を取り崩して非正規雇用を維持するという状況で積み立ては望みにくく、こうした対応は基本的にサステナブルなものではありません。
もっとも、景気が回復して雇用情勢が改善すれば内部留保を取り崩す必要はなくなるのだからサステナブルである必要はない、足元の一時的な対応を行うためには内部留保は十分あるのではないか、という意見もあるでしょう。ここで次に気をつけなければいけないのは、内部留保は必ずしも企業の金庫に入っているわけではない、ということです。バランスシートに「準備金」という項目で金額表記されているので、どことなく巨額のお金が金庫を開ければ出てくるかのような印象を与えるのでしょうが、実際にはその相当割合は生産設備や中間在庫などの形で保有されています。これらを売却して現金等に変えることは不可能ではないでしょうが、ほとんどの場合はかなりの売却損が発生するでしょうから、バランスシート上の「額面」を真に受けるのはかなり危険です。
もちろん、企業の金庫にまったくお金がないわけでは当然なく、バランスシートをみれば内部留保ほどではなくてもかなり高額の流動資産が計上されていることでしょう。これはたしかに金庫を開ければ出てくるお金に近いものです。
とはいえ、企業が活動するには、仕入代金の支払や、それこそ賃金の支払などに必要な運転資金として一定のキャッシュが絶対に必要だということには十分気をつける必要があるでしょう。実際、バランスシートをみれば短期で返済しなければならない流動負債も相当額計上されているでしょう。財務の健全性という観点では、流動資産は流動負債の2倍以上あることが望ましいとされています。しかし、現在のわが国では、大企業もふくめ流動比率が2倍を超えている企業はあまり多くないのが実情です。資金のショートは倒産に直結しますから、その費消には十分慎重であるべきでしょう。また、財務体質の悪化には格付の引き下げなどを通じて資金調達コストを上昇させるといった副作用もあるでしょう。
前述したように、内部留保は企業がその安定と成長に資するべく株主の承認を得て積み立てているものです。需要が減退していて当面増産投資の必要性が低い現状、その分は内部留保を縮小してもよいというのはひとつの考え方でしょう。とはいえ、そもそも企業活動に必要な設備や在庫まで売却してしまっては企業の存続自体危うくなりますし、今現在はとりあえず増産投資を行うような局面ではないにしても、将来に向けて行われるべき研究開発投資や、事業続行や安全性確保のために必要な老朽更新投資などを怠ることは、企業の存続にかかわりかねない問題となる可能性があります。
また、仕事がなくても雇用を維持することに内部留保を振り向けることは、来たるべき増産にタイムリーに対応し、その果実を最大に収穫することで十分お釣りのくる投資であるかもしれません。とりわけ、それなりに長期にわたって企業が人材投資を行い、技術やノウハウを蓄積している正社員の雇用を守ることは、中長期的には十分に割の合う投資である可能性は高いでしょう。
それに対し、派遣社員などの非正規雇用については、増産局面に入っても即座に労働市場からの調達が困難になるとは考えにくく、また蓄積された技能等もそれほど多くはないことから、仕事がなくてもその雇用を維持することが投資としてペイするかどうかは相当慎重に考える必要がありそうです。もちろん、それでもなお赤字を出してまでこうした雇用を維持することに社会的な役割を果たすことが企業の声価を高め、いずれは売上の増加や利益の拡大につながるのだ、という考えることも不可能ではないかもしれません。
いっぽうで、業績が厳しいときこそ、手厚い内部留保のもたらす安定性が重要なのだ、という考え方もあるでしょう。これらのバランスをどのように取っていくのかは、基本的には企業経営に責任を持つ経営トップが熟慮のうえ判断すべきことなのではないでしょうか。もちろん、労働組合などとの協議は非常に重要でしょうし、企業の規模などに応じて地域経済や国家経済への配慮といったものも必要になってくるでしょう。河村官房長官の発言は政治的にやむを得ない部分もかなりあるのでしょうが、どうしてもそれをやらせたいということであれば、非正規雇用を維持する企業への助成金とか、あるいは非正規雇用を維持している企業の政府調達での優遇など、企業の安定・成長をあまり損ねないような政策を考えるべきでしょう。あまり筋がいい政策とも思えないのではありますが…。