「雇用保険料を下げて賃上げ」という詭弁

今朝の日経新聞によると、麻生首相はきのう官邸に経団連会長と日商会長を呼び、雇用確保と賃上げを求めたそうです。

 麻生太郎首相は一日、首相官邸御手洗冨士夫日本経団連会長ら経済界首脳を招き、景気悪化で深刻になってきた雇用問題を話し合った。雇用確保への努力で一致した。首相は国内需要を下支えするため雇用保険料の引き下げ分を原資に賃金引き上げを求め、経済界は賃上げに難色を示した。政府・与党は週内にも新雇用対策案をまとめるが、有効策を打てるかどうかは不透明だ。
 会合には岡村正・日本商工会議所会頭も出席した。首相はまず「雇用と賃金は生活に直結する」と強調。「景気がドーンと落ちている。内定取り消し問題を含めた雇用安定や賃上げの努力をしていただきたい」と要望した。雇用確保策としては若年層が正社員になるための支援や地域での雇用機会拡大策を求めた。
 景気後退下で首相が賃上げを求めるのは極めて異例。首相が賃上げの具体策として念頭に置くのが、政府の追加経済対策に盛られた雇用保険料率の引き下げ分を活用する案だ。今の保険料率は労使折半で総賃金の一・二%。政府はこれを最大〇・四%下げる案を軸に検討中。企業にとって月収三十万円の会社員だと一人当たり六百円の負担減となり、これが賃上げ財源になるという。
(平成20年12月2日付日本経済新聞朝刊から)

いやはや、「雇用保険料を下げるからその分賃上げしろ」ですか。これはまた思い切った理屈を持ち出したものです。
実際には、現状の保険料率は15/1000で、うち失業給付などにあてる分が12/1000で労使折半(記事はこれのことを書いているのでしょう)、残り3/1000は使用者のみ負担で、悪名高い雇用保険2事業の財源になっています。雇用保険の財政は、雇用失業情勢が悪くなると失業給付などの支出が増えるのと保険料収入が減るのと両方で悪化し、雇用失業情勢が良くなると支出は減って収入は増えて好転するため、財政を安定化させるしくみが制度にビルトインされています。ひとつが政府が「埋蔵金」としてあてにしている積立金、もうひとつが保険料率のいわゆる「弾力条項」で、失業給付などにあてる分については、財政の状況に応じて20/1000から12/1000までの範囲で厚生労働大臣が変更できることとされています。現在はここ数年失業率も低下傾向だったため財政に余力があり、積立金は5兆円近くに迫り、保険料率も下限の12/1000となっています。これをさらに法改正して8/1000にまで下げ、それによって企業負担が減った分を賃上げしろ、という理屈なのでしょう。ちなみにこの8/1000というのはたぶん過去最低の水準に並ぶものです。
しかし、これから景気がさらに悪化し、雇用失業情勢も厳しくなることが目に見えているにもかかわらず、今現在足元の財政に余裕があるから積立金を流用し、保険料率も引き下げて財源不要のバラマキを行おうというのはいかにも近視眼的で、以前も紹介したように連合も保険料率引き下げには反対しています。
実際、ここで保険料率を下げたところで、雇用失業情勢が悪化すれば雇用保険財政も悪化し、いずれ保険料率の引き上げが必要になることは目に見えています(積立金を流用したうえに、給付対象を拡大しようとしているのですからなおさらです。対象拡大に一定の必要性があることは承知しておりますが)。過去の例をみても、2000年代初頭の雇用失業情勢悪化時には弾力条項の上限まで保険料率を引き上げ、それでもまだ足りず、保険料率を引き上げる法改正を余儀なくされるという事態がかなりのドタバタ劇をともないながら発生しました。
つまり、現行法のままとすれば20/1000までは法改正なしで料率を引き上げられるわけですから、企業がうかうかと政府の理屈に乗って保険料率引き下げ分を賃上げにあててしまうと、いずれまた保険料率は上がり、賃上げ分は結局企業の持ち出しになってしまうということになりかねません(というか、かなり確実にそうなるでしょう)。そう考えれば、政府の「雇用保険料を下げるからその分賃上げしろ」という理屈は、詭弁であるとのほか言いようがありません。
また、きのうのエントリとも関係しますが、「景気がドーンと落ちている。内定取り消し問題を含めた雇用安定や賃上げの努力をしていただきたい」というのもどんなもんなんでしょう。もちろん、雇用安定や労働条件改善の努力は常に重要ですし、不況期にこそそうした努力が必要だというのもわかりますが、しかし不況期に企業に過度の期待をするのは無理難題というもので…。
さらに「雇用確保策としては若年層が正社員になるための支援や地域での雇用機会拡大策」まで企業に求めるとなると、これはなかなか…。もっとも、これは政府がやろうとしている内容に近いものなので、政府の施策を説明したのを日経の記者が勘違いしたのかもしれません。
ちなみに経済界はといえば「御手洗会長は「賃金交渉のスタンスは検討のさなかで本日の要請を踏まえさらに議論したい」と回答を留保。岡村会頭は「賃上げより雇用安定を重視したい」と賃上げに慎重な姿勢を示した」そうです。たしかに、赤字に陥っている中小(に限りませんが)企業としてみれば、雇用保険料が下がったところで赤字が減るだけで賃上げには回らない、というのが本音かもしれません。