ジェンフリ・バトン

あれやこれやでまたしてもブログがたまってしまいました。そこで、何日分かを稼げるネタはないかということで、id:mojimojiさんが提唱(http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20060520/p3)して一部で流行しているらしい「ジェンフリ・バトン」を私もやってみようかと(笑)。
もっとも、これは結局のところジェンダーフリーをどう考えるかという立場によってまったく見解が異なってくるものでしょう。また、これは教育(とりわけ公教育)の場面でのジェンダーフリーの議論なので、職場でどうかとなるとまた違ってくる部分もあるかもしれません。
というわけで、まずはジェンダーフリーについての私の見解を示しておくのが効率的でしょう。といっても、私に特段の主義主張があるというわけでもありません。医学的・生物学的な性差が存在することは事実ですし、それにともなう男性らしさ・女性らしさを否定してみても仕方がないことだろうと思います。大切なのは個人がそれを強要されないことだと思います。
教育・学校におけるジェンダーフリーの難しさは、公立校では児童生徒や保護者が学校を選べないというところにあるのではないでしょうか。選ぶことができれば、ジェンダーフリーも学校により多様であっていいわけですし、選ぶほうがそれも判断材料にして学校を選べばいいわけで、ある意味これが根本的な解決策なのかもしれません。もちろん、通学範囲に公立校が1校しかない地方などでは事実上選べないなど、難しい問題はありますが。
もっとも、選べないから全部同じでないと不公平だというのも程度問題で、ジェンダーフリーについてはある程度学校による温度差があるのは認めてもいいのではないでしょうか。「ジェンフリ・バトン」のなかのいくつかはそういう問題ではないかという気がします。もちろん、推進論者としてみれば一律強制にしたほうが効果が大きいという運動論上の要請はあるでしょうし、その是非を議論すべきだとの考えもあるでしょうが、いっぽうで言葉づかいとか服装とかいった問題はやはり基本的には個人(児童生徒・保護者も教員も)の自由というのが大原則でしょうから、私はやはり強制は極力避けるべきではないかと考えます。また、そもそも用語や服装を変えたところでどれほど本質が変わるのか、という根本的な疑問もあるのですが、まあ意識を変えるには…ということでしょうか。「ことばは魂」ですからね。
と、思惑どおり(笑)そこそこ長くなってきましたので、具体論は明日以降の分ということで(笑)