中高年の既得権と若年雇用

3月23日のエントリで、大竹文雄先生の所論に関連して「90年代に既存正社員の賃金を引き下げて正社員雇用の需要を増やそうとすると、相当程度大幅な引き下げが必要であり、しかも需要増の効果は限られていると思う」ということを書いたところ、「賃金引き下げは企業の利益になるだけだから正社員需要は増えない」というバカげたコメントが寄せられました。
もちろん私はそんなことを考えていたわけではありません。私がこう考えた理由について、久々に「労働雑感」を書きました。以下に転載しておきます。


 大阪大学大竹文雄先生が、近年若年層の所得格差が拡大したのはもっぱら非正規雇用が増加したからであり、それは既存正社員の既得権が守られているせいだ、と随所で指摘しておられます。企業が90年代に人件費抑制を迫られた際に、本来なら既存正社員の賃金を下げて若年を正社員採用したほうが企業にとって人材育成などの観点から望ましいにもかかわらず、既存正社員(やそれを代表する労働組合)が既得権を守り、若年を非正規採用することで対応することを選択したことが格差拡大につながった、ということのようです。
 もちろん、一般的に考えれば、賃金を引き下げれば人を雇ってビジネスをして利益を上げられる可能性が高まりますから、労働需要は増えることは間違いないだろうと思います。とはいえ、私は90年代という時期、あるいは日本の労働市場という特殊性を考慮に入れれば、既存正社員の賃金を引き下げることで(若年に対する)正社員雇用の需要が増加するとしても、それには相当程度の大幅な賃金引き下げが必要であり、さらに需要増加の効果も限られていたのではないかと思います。したがって、それで若年の格差拡大を防げた効果も大きなものではなかったのではないかと考えています。
 これについては、雇用人数と人件費を別々にとらえ、その組み合わせで考える必要があると思います。
 まず、人手が余っていて、かつ(したがって)人件費も高すぎる、という企業を考えます。90年代の日本では、こうした状況にある企業が多かったのではないでしょうか。この場合、既存正社員の賃金を引き下げるにしても、それは人件費が適正になる水準にとどまり、正社員雇用の需要は増えないはずです。仮にもっと既存正社員の賃金を引き下げて人件費に余裕を出しても、そもそも人手がいらない以上は雇用人数を増やすことは考えにくいでしょう(もちろん、労働時間を短縮してワークシェアリングするという考え方もありますが、それにはまた別の課題も多く、ここではそこまでは踏み込みません)。
 いっぽうで、雇用人数が適正、あるいは人手不足であるにもかかわらず、人件費の抑制が必要であったとします。失業率の上昇と(正社員の)労働時間(時間外労働)の増加が同時に進んでいたことは、こうした企業も多かったことを示しているのかもしれません。この場合、人件費の制約が人手不足の原因になっていると見ることもでき、であれば既存正社員の賃金水準を引き下げれば、その分は正社員雇用の需要は増えるでしょう。ただし、賃金水準を下げ、かつ人数は増えるわけですから、人件費抑制の要請がある中では相当程度の引き下げが必要になるでしょう。このとき、賃金水準が非正規雇用並みにまで下がってしまうとすれば、格差拡大を抑える効果はありません(さすがにそこまでは下がらないでしょうが、効果は限られたものになるでしょう)。
 加えて、正社員は採用すると解雇が難しい、という特徴があることも重要です。これは雇用人数については今現在だけではなく、先行きのことも考慮に入れなければならない、ということを意味します。足元は適正、もしくは人手不足であるにしても、将来的に人余りになる可能性がある程度あるとすれば、正社員採用にあたっては予想される人余り状態を前提に考える必要があります。これは既存正社員への需要を減退させる要因になりますが、90年代の日本企業の多くは先行きに人余りを見込んでいたのではないでしょうか。
 こうしたことをトータルで考えると、90年代に既存正社員の賃金を引き下げていれば正社員採用の需要が増えていたかもしれないにしても、それには相当程度の引き下げが必要であり、かつあまり大きな効果は見込めなかっただろうというのが私の意見です。もちろん、90年代に既存正社員の賃金引き下げをする必要はなかったとか、引き下げなくてよかったと言っているわけではありません。現実には、人余りの中で既存正社員の賃金を引き下げて雇用を守った企業もいくつもあります。
 それに関連して、ここからは大竹先生の所論からすこし外れてくるのですが、規制緩和論者の中には、解雇規制を緩和することで賃金の高い中高年の解雇を促進(?)すれば、その分若年の正社員雇用が増えたはずだ、という意見もあるようです。中高年を一人解雇すれば若年が二人雇える、というわけです。たしかに、90年代には希望退職を募集するかたわら新卒採用も行う企業も実際にありました(ただし、それは低付加価値分野をスクラップし、新規事業のほうで新卒を採用するというケースが多かったのではないかとも思いますが)。
 しかし、こうしたことを主張する規制緩和論者は、いささかその効果を過大評価しすぎなのではないかと私は思っています。
 現実に余剰人員が存在する場合には、解雇規制が緩和されれば働きのよくない(しかし賃金は高い)中高年正社員を解雇して人員を適正化しようとする企業もあるかもしれません。しかし、人員規模が適正であるにもかかわらず、中高年を解雇してかわりに若年を雇用するということがどれほど行われるかは、単に賃金水準の比較だけでは判断できないでしょう。
 わざわざ言うまでもないでしょうが、正社員の賃金と貢献度の関係を確認しておくと、多くの企業では、入社後何年かは賃金が貢献度を上回っている、すなわち人材投資の段階であり、その後、賃金を上回る貢献を期待することで投資を回収し、さらにある時点からは貢献以上の賃金を約束することで長期勤続と能力向上を促してきた、という状況があったものと思われます。
 したがって、若年はたしかに賃金は低いでしょうが、当然ながら貢献度も高くはありません。しかも、若年は退職のリスクも高く、人材投資を回収しないうちに退職されてしまったのでは企業にとっては損失です。また、採用してみたものの期待はずれだったというリスクもありますし、今後40年間固定的なコストになってしまうということも考える必要があります。もっとも、このあたりは解雇規制がどの程度緩和されるかによって違ってくるわけで、解雇規制が全廃されればあまり問題にはなりませんが。
 これに対して中高年は、賃金は貢献に較べて高すぎるにしても、能力や人柄もわかっていますし、一から仕事を教える必要もありません。しかも、人件費抑制が必要となった企業の多くは賃金制度を変更し、ある時点からは貢献以上の賃金を支払うという約束を反故にしています。さらに、解雇規制が現状のままでも、あと10年もすれば定年退職(継続雇用するときには賃金を大きく下げることができます)してくれるのです。
 つまり、賃金以外の要素をいろいろと考慮に入れると、必ずしも常に中高年が若年より競争力がないとは言い切れません。さらに、当然ながら指名解雇には従業員全体の士気の大幅な低下や、企業イメージの悪化とそれを通じた人材確保への支障といった弊害もあります。こうしたことをトータルで考えると、解雇規制を緩和することで、中高年を解雇して若年に置き換えるということがそれほど大規模に起こるとは私には思えません。
 以上はすべてデータなどの根拠があるわけではなく、一介の人事担当者である私の実務実感に過ぎませんが、しかし私は若年雇用問題を中高年の既得権と結びつけて世代間対立の図式で論じるのはあまり生産的であるようには思えません。とりわけ正社員雇用を増加させようとするのであれば、やはり経済活性化を通じて労働需要を高めることが最重要であり、それに人材育成を付け加えるという正攻法の取り組みが求められるものと思います。