友野典男『行動経済学』

行動経済学 経済は「感情」で動いている (光文社新書)

行動経済学 経済は「感情」で動いている (光文社新書)

「キャリアデザインマガジン」のために書いた書評です。かなり無理やりに「キャリアデザイン」にこじつけていますが、それとは関係なく、とても面白い入門書でした。
転載します。
 こんなことを考えてみてほしい。あなたはある会社で10年の経験を持つコンピュータ技術者だとする。5年前には半年かけて自費で専門学校に通い、ある資格を取得していて、現在では40万円の月給を得ている。
 ところが、勤務先が倒産し、あなたは失業してしまった。求人情報をみると、残念ながら同じような仕事はすぐには見当たらないが、生活のことをを考えればそろそろ再就職しなければならない。今のあなたが応募できそうな求人はふたつあり、ひとつは月給35万円の営業職で、これまでの仕事とほとんど関係はないが、面白そうだしやってもいけそうだ。もうひとつはこれまでとほぼ同じコンピュータ技術者の仕事だが、月給は30万円だ。昇給などの見通しはどちらも変わりない。
 さて、あなたはどちらの職を選ぶだろうか?あなたが経験20年で、職務発明で表彰された経験もあるとしたらどうだろうか?
 もう一つ考えてみてほしい。あなたはA国とB国にはさまれた小国の大学生で、卒業を控えており、いずれかの国で就職したいと考えているが、各国とも深刻な不況で就職活動に苦戦している。
 それでも、A国のa社とB国のb社から内定を得た。A国はデフレに陥り、昨年は物価が2%下落したが、B国はスタグフレーションに苦しみ、昨年の物価は10%上昇した。a社、b社とも昨年の初任給は200,000円だったが、今年の初任給はa社が187,000円、b社が209,000円となっている。両者とも経営努力のかいあって利益を確保しており、将来性などは変わりない。
 さて、あなたは就職先としてどちらを選ぶだろうか?
 もちろん、どういう選択をするのも自由だし、善悪が決められるわけではないが、常識的に考えるとコンピュータ技術者を選ぶ人、b社を選ぶ人のほうが多いのではないだろうか。
 ところが、標準的な経済学の考え方では、営業職を選び、a社を選ぶのがいわば「正解」なのだ。それは、標準的な経済学がその前提とする人間像である「経済人」が「認知や判断に関して完全に合理的であって意志は固く、しかももっぱら自分の物質的利益のみを追求する人」というものだからだ。
 当然ながら、これは普通の人間像からはかけ離れているし、現実の経済がこうした前提のもとに動くとは思いにくい。10年もの経験を持ち、自費で取得した資格まであるとなると、再就職のときにそれを生かさないのは「もったいない」と感じるのは情においてまことにうなずけるものがある。さらに経験が豊富になり、技術力も高くなれば、なおさらだろう。経済学的には過去の経験や資格取得といった人的投資はもはや取り返せない「サンクコスト」なので、それに一切こだわらないのが合理的とされる。仕事の内容はともあれ、賃金の高いほうを選択するのが合理的なのだ。とはいえ、人間そうそう簡単に割り切ってしまえるものではない。
 もうひとつの設問はといえば、そのお金でなにがどれだけ買えるか、という実質的な値打ちで見てみれば、実はa社もb社も同じことだ。細かくみれば端数処理の関係でわずかにa社のほうが有利になっていて、したがってa社を選ぶのが合理的、ということになる。A国では昨年100円だったパンが今年は98円になっている。B国では昨年100円だったパンは110円になっている。昨年の初任給では、どちらでもパンを2,000個買うことができた。今年はどうだろうか?b社の初任給では110円に値上がりしたパンを1,900個しか買えない。実質的には賃金は下がっているわけだ。いっぽう、A国では98円に値下がりしたパンを1,900個買うには186,200円あれば足りる。もちろん、実質的に賃下げであることは同じだが、a社はこの端数を切り上げているから、その分a社を選ぶほうが合理的だということになる。とはいえ、いくら実質的に同じと言われても、賃金が額面でダウンすればがっかりする人が多いだろうし、額面が増えればうれしいと思う人が多いだろう。これは「貨幣錯覚」といわれるが、そうした錯覚をするのが人間というものだ。
 もちろん、こうした人間の振る舞いが実際の経済に相当の影響を与えているということには、経済学者もとっくに気づいていて、感情や心理の要素を織り込んだ経済学である「行動経済学」という研究分野が出現している。2002年にはその草分けであり、第一人者であるプリンストン大学のダニエル・カールマン教授がノーベル経済学賞を受賞しているから、学問分野として一応確立されているといっていいだろう。この本は、この新しい学問の解説書であり、最初に紹介したような興味深い事例が多数紹介され、その理論的な説明が付されている。
 キャリアデザインに対する含意も豊富である。最初の例でいえば、多少賃金が安くても自分の技術や資格を生かせれば幸福だということであればそれでもいいが、技術や資格にこだわるあまり、ずるずると失業が長期化してしまうとなるとやはり問題だろう。善し悪しではなく、人間はサンクコストにこだわって経済的には不合理な考え方をするものなのだ、ということを理解しておくことが大切なのではないか。貨幣錯覚についても、そういう錯覚をしがちだということを念頭に置いておかないと、思わぬ損をするかもしれない。そのほかにも、キャリアデザインを考える際にも有益な内容を多く含んでいるし、読み物としても面白い本なので、タイトルをみて「関係ないや」と思わずに、一度手にとってみてほしいと思う。