「金融経済の専門家」の教育論

人気作家の村上龍氏が主宰する「JMM [Japan Mail Media] 」は広く読まれているようですが、本日配信された号の設問は「…日本の若年層と子どもを巡る教育・雇用の現状と、将来的な経済への影響について、考えをお聞かせ下さい。」というもので、これに「金融経済の専門家たち」が回答しています。次号が出るまでの2日間くらいなら、http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000015619で見られます。
教育問題というのは、それこそ金融経済の問題とは異なり、たいていの人がそれぞれの立場から、多くは自分の体験をもとに発言できるので、議論が発散しがちで収拾がつきにくい傾向があります。こちらも、「金融経済の専門家」が教育問題を論じるのですから、やはりご同様のようです。もっとも、教育問題の専門家にとっては、「金融経済の専門家」がこうした意見を持っているということは、知っておいて悪くはないでしょう(もちろん、教育問題を避けて通って無難にまとめた人もいますし、なかには「私は教育問題の専門家ではないからわからない」とまず断り、それでも(レギュラーなので?)何か書かないわけにはいかないので歴史的なことをいろいろ書き、最後にもう一度「やっぱりわかりません」とまとめた良心的(だと私は思います)な人もいますが)。
私もこの問題に詳しいわけではないので、内容についてはコメントできませんが、内容以前の問題で、ちょっと怖いな、と感じるところがありました。
まあ、ちょっとした表現というか、「口のきき方」の問題なので、それをとりたてて「怖い」というのも大げさだと言われるかもしれません。しかし、たとえばこんな調子です。

 学力が下がり、若年時に就業しない、ということの個人としての帰結は、職業上の十分なトレーニングを少なくとも若い頃に受けない、従って、後年高いレベルの職業上のスキルを持ちにくいということです。人間は簡単に生活場所を変えることが出来ないので、日本全体の集計数値として将来を想像すると、企業の生産性が落ち、経済全体としての成長に対してもマイナスの要因になります。
 上記は単なる予想であって、価値判断を含んだものではありませんが、ビジネスの場に於いては、自分だけでなく他人の生産性が自分の生産性にとっても大きな影響を及ぼすので、多くの人にとって、現在の状況は嬉しいことではないといえるでしょう。

前段だけでやめておいてくれればよかったのですが、後段の自己中心ぶりはちょっと怖いと感じます。そうか、私のような生産性の低い奴は、生産性の高い「金融経済の専門家」の生産性に「大きな影響」を及ぼしているのか・・・。いやはや、申し訳ありませんでした。
こんなのもあります。

 「豊かさ」が確立し、その「豊かさ」を築き上げられた「システム」が再生産させていく世界が生まれれば、実は人間は強い意志を持って自分自身を取り巻く「厳しい自然」に対峙し、その世界を生き抜く「大人」にならなくても、ずっとずっと幼稚な子供のままで、問題なく生きて老人となり死んでいくことが可能なのかも知れません。或いはその幼稚な子供という言葉を「動物」と置き換えてもいいのかも知れません。

はあ・・・。これ、怖くありませんか?ま、たしかに私は「金融経済の専門家」のような「大人」ではなく、「ずっと幼稚な子供のまま」の「動物」ですがね。そうした「システム」をこの国につくりあげてくれた先人たちには深く感謝しておりますが。
こういう人たちが教育を語っているのですから、その内容も推して知るべし、です(繰り返しますが私には内容は云々できませんが)。教育に限ったことではなく、こういう人たちがこうした形で世の中に影響力を及ぼすこと自体が怖いことのようにも思えます。
たしかに、「金融経済の専門家」からみれば、私のような一般庶民は生産性が低くて幼稚にみえて仕方ないのでしょう。そういう意識を持つなとは申しませんし、持つのも致し方のないことかも知れないとも思います。ただ、それをこういう剥き出しの形で世間に公言するのはいかがなものでしょうか。こういうところに、「金融経済の専門家」たちが、おそらく彼ら・彼女ら自身も不満に思っているように、「社会からそのエクスパティーズに見合った正当な評価、尊敬を得られない」理由の一端があることに気づいてほしいものです。
なお、作家である村上龍氏の教育についての見解はこういうものです。

教育の危機についてはいろいろな人がいろいろな意見を言っていますが、どのような子ども・若者が望ましいのか、どのような大人に育てたいのか、という点がはっきりしません。教育基本法を始めるとする教育システムについても、いろいろな提案がなされているようですが、子どもがどんな人間になるのが望ましいと考えられているのか、わたしにはよくわかりません。たとえば同級生をナイフで刺さないための教育と、数学や、国語の読解力を高めるための教育はそれぞれ別のものです。

とりあえず、「健康で個性的で心豊かな」(なにかを引用しているわけではありません)といった調子のものはすでにある(と思う)ので、村上氏がいうのはもっと具体的で規範的なものでしょう。そうなると、当然論者によって意見は分かれるはずです。ちなみに私は自分の子がどんな子に、若者に、大人になってほしいか、については漠然とした希望を持っていますが、隣の子や日本中の子について「どのような子ども・若者が望ましいのか、どのような大人に育てたいのか」がわかるとはとても思えません。もし、村上氏がそうした具体的・規範的なものが「決められる」「決めるべき」だと考えているとしたら、それは別の次元で怖い話だと思います。