選手宣誓

スポーツネタです。今年もまた「夏の甲子園」の季節となり、今日はいよいよ準決勝ということで、勝ち残ったチームにはまことにご同慶です。勝っても負けても最後までいい試合・いいプレーとなることを祈りたいと思います。
さてそんな中ではありますが、今年の開会式の選手宣誓に少し違和感を感じたところがあり(たいへん立派な宣誓でしたのでそれにケチをつける意図は毛頭ありません)、少し調べてみたので書いてみたいと思います。
さて周知のとおり、高校野球に限らずスポーツ大会の開会式における選手宣誓というのは典型的には「私たち選手一同はスポーツマンシップにのっとり正々堂々と戦うことを誓います」というものでした。それが現在のような自由文に変わったのは1984年らしく、日本トップリーグ連携機構のウェブサイトに掲載されている嵯峨寿筑波大准教授のエッセイがその経緯を紹介しています。

1984年大会の選手宣誓を行なった福井商業の坪井久晃主将が、「若人の夢を炎と燃やし、ちから強く、逞しく、甲子園から未来に向って、正々堂々と戦い抜く」と誓い、それまでの紋切り型を脱したばかりか、静かな口調で行なったのが今にいたる転換点になったと評されている。
 1915年に始まった甲子園大会に選手宣誓が採り入れられたのは1930年のこと。それまでは高野連が用意した宣誓文を読み上げるものだったのが、1984年大会から「自分のことばで語るように」と方針が変わる。…
http://japantopleague.jp/column/excellence/excellence_0037.html

それ以降、他の大会でも同様の動きが続き、現在では国民体育大会高校総体のような全国規模の総合競技大会の選手宣誓でもそれぞれに自由文の選手宣誓が行われる例が多いようです。高校野球の場合、文面は基本的には宣誓者に委ねられてきたようで(まあ主催者の確認は入るものとは思いますが)、報道によれは今年の場合は「宣誓文は組み合わせ抽選会後の3日夜から、(宣誓者が:引用者注)野球部顧問に助言してもらい、チームメートとアイデアを出し合いながら練り上げた。」とのことです(毎日新聞ウェブサイト、http://mainichi.jp/sports/news/20150806k0000e050209000c.html)。それがこの文面です。

 1915年8月、第1回全国中等学校優勝野球大会が始まりました。それから100年間、高校野球は日本の歴史とともに歩んできました。この100年、日本は激動と困難を乗り越えて今日の平和を成し遂げました。このような節目の年に、聖地甲子園で野球ができることを誇りに思い、そして支えていただいたすべての方々に感謝し、全力でプレーをします。次の100年を担うものとして、8月6日の意味を深く胸に刻み甲子園で躍動することを誓います。

これに対しては「選手個人の意見の表明であって選手一同の宣誓になっていない」という批判があるらしく、まあ平和とか8月6日とかいうことばに政治的に反応している人たちなのだろうと邪推するわけですが、たしかに文章としては主語が不明確(なんかこれ最近よく見かけたような気がするな(笑))であってそのように読めるとは思います。
ただまあ政治的なお好みはともかくとして選手宣誓が形式的に個人の意見表明の形をとっても悪いことはないと私は思います。たとえば今年の高校総体の開会式の選手宣誓はこういうものだったわけです。

 我々選手一同は恵まれた環境の中、大好きなサッカーを精一杯できることに喜びを感じ、そしてこの大会を支えて下さるすべての方々に感謝し、己を信じ、仲間を信じ、築き上げた絆でインターハイをつくりあげ、「怯まず、奢らず、溌剌と」無心でボールを追いかけることを誓います

これを聞いて「いや高校総体はサッカーの大会じゃないだろう」と言い出す人もそうはいなかろうと思いますし、文中出てくる「怯まず、奢らず、溌剌と」という文言はこの選手が在籍する高校サッカー部の部訓?であるらしのですが、それに目くじら立てる人というのもあまりいないでしょう。これは形式的には個人の意見以外のなにものでもないでしょうが、しかしそこに集まった選手たちが競技名を自分の競技名に、部訓?を自分たちの部なり学校なりのモットーに置き換えて共有し共感できるものであれば、それは全員の意思表示といえるのではないかと思うわけです。
あるいは、一般論として「勇気と感動を与えます」みたいな言い方が傲慢だとかエラそうだとかいう批判はかねてからあるようであり、まあ批判する気持ちもわからなくはありませんし全否定するつもりもありませんが、私はそうした自負や決意を言葉に出すことは好ましく感じます。自信や自負は傲慢や思い上がりまで含めて青春の美徳であると私は思います(大人になったらそれなりの分別も必要でしょうが)。
さて私が違和感を覚えたというのはそういった話ではなく、一言では言い表しにくいのではありますが、まずはフェアプレーの誓いがないというところにあります。
もう一度かつての、そして長く使われてきた典型的な宣誓文を思い出していただくと、それは「スポーツマンシップにのっとり」「正々堂々と」戦うことを誓うものでした。つまり、それは端的にフェアプレー精神を誓うものだったわけです。サッカーのJリーグの試合開始の際に、選手入場に先立ってFair Playと大書された黄色い旗(フェアプレーフラッグ)が入場するのは毎試合見る光景ですが、これも同じ趣旨だといえるでしょう。
これは非常に単純な話で、要するにスポーツの安全にはフェアプレーが必須ということです。およそあらゆる競技で危険なプレーは最も重い反則とされており、互いにそのルールを守ることで身体や生命の危険のないプレーが可能になります。自分の安全は相手がルールを守るか否かに決定的にかかっているわけです。勝負のかかった場面であっても、相手が反則を犯したとしても、いかにエキサイトしていたとしても、そして仮に審判が見ていなかったとしても、ルールは守る、あるいはルールの範囲内であったとしても過度なラフプレーは慎む。それが、スポーツマンシップの根幹とされてきたわけです。
もちろん、現実には勝つために、あるいは単にエキサイトした結果としてラフプレーが繰り返されていることも残念な事実だろうと思います。こんなことを書くとまたサッカー好きの方に怒られるかもしれませんが、Jリーグでは毎試合フェアプレーフラッグにベンチ入りする全選手がサインするそうですが、これも逆にいえばいかにフェアプレーをつらぬくことが難しいかを示しているのかもしれません。だからこそ、サッカーに限らずあらゆる競技で、大会を始めるときにはフェアプレーを誓うのではないかと思うわけであり、だから今回の選手宣誓にそれがないのをみて「おや?」と思ったわけです。
ちなみにやや余談になりますが、スポーツ界では近年、フェアプレーに近い・より広い概念、競技上のみにとどまらないスポーツの社会的側面まで包摂した概念としてIntegrity of Sportが注目されているようです(たとえばhttp://www.jpnsport.go.jp/corp/tabid/539/Default.aspx)。これには「スポーツの高潔性」という訳語があてられており、正直integrityを高潔性と訳すのも初めて見るなとは思いますが、たしかに翻訳が難しい・日本語に対応することばのない概念なので、意図するところをあてたのでしょう。ただ、私個人としてはスポーツにおけるインテグリティといわれていちばんしっくりくる具体例は「審判が見ていてもいなくてもルールを守る」というものではないかとは思うところで、その重要性は言うまでもありませんが、「高潔性」と言って威張るのも少々気がさすような気もしなくはなく、いや世の中警官が見ていなければドロボーを働く人が多数かといえばそうでもないわけで…。
それはそれとして選手宣誓に戻りますと、私にはもうひとつ違和感があり、それは「平和」への言及に関するものです。もちろん私としては平和はスポーツにとっても非常に重要であり、選手宣誓でそれに言及することに異論はないわけですが、フェアプレーに触れていないのに平和に言及したというところに、もちろんだから悪いということは一切ありませんが、しかし若干の違和感があるわけです。
というのは、フェアプレーはスポーツと平和を結びつけるキーコンセプト?であると考えられているからで、たとえばかなり堅苦しく小難しい文章で恐縮ですがJOCのウェブサイトに掲載されている「スポーツ宣言日本 〜二十一世紀におけるスポーツの使命〜」(http://www.joc.or.jp/about/sengen/)をみるとそれがこう書かれています。

 スポーツは、その基本的な価値を、自己の尊厳を相手の尊重に委ねるフェアプレーに負う。この相互尊敬を基調とするスポーツは、自己を他者に向けて偽りなく開き、他者を率直に受容する真の親善と友好の基盤を培う。
 二十一世紀のスポーツは、多様な価値が存在する複雑な世界にあって、積極的な平和主義の立場から、スポーツにおけるフェアプレーの精神を広め深めることを通じて、平和と友好に満ちた世界を築くことに寄与する。
http://www.joc.or.jp/about/sengen/

ここに「私たちがフェアプレーに徹することがひいては世界の平和をもたらす」というストーリーがあるわけで、この考え方を共有する私としては、せっかく平和に言及するのであれば(そしてそれはたいへんいいことだと思うので)このストーリーをふまえてほしかったと思ったわけです。
さて最初に戻って、私としてはこれまではどうだったんだろうと心配になりましたので、過去の高校野球の選手宣誓を少しさかのぼって調べました。ありがたいことにウェブ上にはまとめサイトhttp://matome.naver.jp/odai/2137670720476242801http://matome.naver.jp/odai/2133232316268659001)が作成されていて一覧できたのでたいへん助かりました。

■2015春
 高校野球の全国大会が始まって100年。戦争による中断や震災など、いくつもの困難を乗り越えて、今、多くの皆さんに支えられ、大好きな野球ができることに感謝します。グランドにチームメートの笑顔あり夢を追いかけ命輝く。生まれ育ったふるさとで、移り住んだところで、それぞれの思いを抱きながら見てくださっている全国の皆さんに、生きていることを実感してもらえるよう、この甲子園で、自分らしく精いっぱいプレーすることを誓います。
■2014夏
 私たちは今、この甲子園球場に立てることに幸せを感じています。第95回を数える長い歴史の中でさまざまな困難を乗り越え、本当に多くの先輩方が前を向き、夢、感動、勇気を与えてくれました。それを私たちが継承し、また先輩方に負けないように決して諦めず、仲間を信じ、未来を信じ、今よりも一歩でも前進します。今生きていること、すべての命に生かされている重みをしっかりと受け止め、高校生らしく爽やかに、すがすがしいプレーをすることを誓います。
■2014春
 85回を数えるこの選抜大会は、全国の多くの人達に、夢や感動を、ときには明日へ生きる力を与えてくれました。私たち36校の球児たちは、今、こうして、憧れの甲子園の舞台に立てることを、支えてくれた全ての人達に感謝し、先人達が積み上げてきた85回の歴史に新たな1ページを加えます。そして、たくさんの人達の絆に支えられ、掴んだこの甲子園の舞台で、最後まで決してあきらめず、全力でプレーすることにより、東北をはじめ全国の困難と試練に立ち向かっている人達に、大きな勇気と希望の花を咲かせることを、ここに誓います。
■2013夏
 これまで多くの先輩が勇気を与え続けてくれた甲子園。今、私たちは子どものころから憧れてきたその甲子園という最高の舞台に、最高の仲間とともに立っています。ここに立っているのは、ふるさとの皆さんをはじめ、たくさんの方々の支えがあったからです。その方々への感謝の気持ちを胸に、また、全国の皆さんに「高校野球を見に行こう」と言ってもらえるよう、高校生らしく、爽やかに、すがすがしく、正々堂々とプレーします。また、自分たちの姿が日本のあすへの希望となり、夢を追い求める力となるよう、これまでお互いに助け合い、頑張ってきたスタンドの仲間たちとともに、最後まで諦めず、力の限り、全力で戦うことを誓います。
■2013春
 85回を数えるこの選抜大会は、全国の多くの人達に、夢や感動を、ときには明日へ生きる力を与えてくれました。私たち36校の球児たちは、今、こうして、憧れの甲子園の舞台に立てることを、支えてくれた全ての人達に感謝し、先人達が積み上げてきた85回の歴史に新たな1ページを加えます。そして、たくさんの人達の絆に支えられ、掴んだこの甲子園の舞台で、最後まで決してあきらめず、全力でプレーすることにより、東北をはじめ全国の困難と試練に立ち向かっている人達に、大きな勇気と希望の花を咲かせることを、ここに誓います。
■2012夏
 私が暮らす東北を、そして東日本を未曽有の災害が襲ったあの日から、いま日本は決して忘れることのない悲しい記憶を胸に、それでも復興への道を少しずつ確かな足取りで歩み始め、多くの試練と困難に立ち向かっています。私たちのひた向きなプレーが、あすへと懸命に生きる人々の希望となることを信じ、私たちの躍動する体と精神が、あすへと進む日本の無限の可能性となることを信じ、そして、私たちの追い続ける夢が、あすの若者の夢へとつながっていることを信じます。全国の仲間が憧れたこの甲子園で、わき上がる入道雲のようにたくましく、吹き抜ける浜風のように爽やかに、正々堂々と全力でプレーすることを誓います。
■2012春
 東日本大震災から1年、日本は復興の真っ最中です。被災をされた方々の中には、苦しくて、心の整理がつかず、今も当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、悲しみにくれている方がたくさんいます。人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。しかし、日本がひとつになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。だからこそ、日本中に届けます。感動、勇気、そして笑顔を。見せましょう、日本の底力、絆を。我々、高校球児ができること、それは、全力で戦いぬき、最後まであきらめないことです。今、野球ができることに感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います。
■2011夏
 春から夏にかけて、どれだけの時が経っても忘れることのない、さまざまなことが起きました。それでも、失うばかりではありません。日本中のみんなが仲間です。支え合い、助け合い、頑張ろう。私たちは精一杯の笑顔で、全国の高校球児と、思いを白球に込め、この甲子園から消えることのない深い絆と勇気を日本中の仲間に届けられるよう、全力でプレーすることを誓います。
■2011春
 私たちは16年前、阪神・淡路大震災の年に生まれました。今、東日本大震災で、多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。被災地では、全ての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることができると信じています。私たちに、今、できること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。「がんばろう!日本」。生かされている命に感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います。
■2010夏
 熱い熱いボクたちの夏が今年もやってきました。今、ボクたちは全国の球児の代表として誇りを胸にあこがれの舞台、甲子園に立っています。今年は連日、猛暑が続いています。しかし、ボクたちはそれ以上に熱く炎のように燃えるような気持ちで、皆さんに元気を与えたいと思っています。今まで自分たちがやってきたことを信じ、また、この場所で野球ができることに感謝して、明るく笑顔でプレーすることを誓います。夏の夢、今、走りだす。
■2010春
 北の大地・北海道から南は沖縄まで、全国4,132校の代表として、幼い頃から憧れた夢見たこの甲子園でプレーすることに、喜びと感動の気持ちでいっぱいです。我々は、常に全力疾走、フェアプレー精神、白球を追い求めるひた向きな姿を貫き、すべての皆様に感謝の気持ちを伝えます。全国の高校球児の思いを背負い、野球の素晴らしさを伝えるべく、一新された甲子園で、威風堂々、戦い抜くことを誓います。

ここまでさかのぼってやめたのはここで初めて「フェアプレー」の語が出てきたからであります。それはそれとしてどれを読んでもたいへん力のこもったもので、自分たちが、高校野球が大切にしている価値観を、その時々の時代背景もふまえながら「自分のことばで」真摯に表現しようとの努力がよくうかがわれますし、結果としてあらわれた個性や多様性も非常に好ましく感じます。個人的には2010夏の率直さと感傷が好きかなあ。
そこで私が気になるフェアプレーの誓いはというと、この間「正々堂々」というフェアプレー精神のキーワードが4回使われていて、「フェアプレー」1回とあわせると12回中5回使われているのでまあ忘れられているということではなさそうです。「スポーツマンシップ」はさらに相当さかのぼっても見つかりませんでしたが、このあたり「自分のことばで」と言われると使いにくいことばなのかもしれません。
その他に目立つキーワードは、ということでカウントしてみたところ(数え間違いがあるかもしれませんがご容赦)、最多はどうやら「感謝」の9回となりました。他に主だったものとして「全力」が8回、「勇気」が6回でフェアプレーを上回り、さらに「仲間」と「感動」が5回(「仲間」はのべ8回)でフェアプレーと同等となりました。ということで高校野球においては感謝、全力、勇気、仲間、感動はフェアプレーと同等以上の価値を持つということであるらしく、本人たちがそうなのか周囲の大人や世間がそれを求めているのか両方なのかわかりませんが高校球児もたいへんだ。いやもちろん感謝も全力も勇気も立派なことですし、こうした技術や戦術とはまた異なる次元のさまざまな要素やそれらの織りなす物語があることも高校野球の魅力なのだということなのでしょうから、それはそれでけっこうなことだと思います。