日本学術会議、「大卒後3年間は新卒扱い」を提言(5)

引き続き、日本学術会議の「回答 大学教育の分野別質保証の在り方について」の第三部「大学と職業との接続の在り方について」を見ていこうと思いますが、hamachan先生がしきりに嘆かれているように、第三部の本論はここまでであって、最後の「5.就職活動の在り方の見直し − 当面取るべき対策」はどちらかというと暴論おっと傍論になります。本論のほうをやるべきだけれどすぐにはできない。時間がかかるけれどその間現状を放置しておくわけにもいかないから、取り急ぎこれもやりましょうという、まさに「当面取るべき対策」が書かれているわけです。ただまあ、いつになったら実現するかわからない、本当に実現するかすらはっきりしない本論よりは、より身近で切実な問題である「当面の対策」のほうが読者にとってニュースバリューがあると考えるのもマスコミの発想としては自然なわけで(まあそのレベル云々とかの話は別としてですね)、まあこうなるかなあとも思うわけですが。
ということで、ここでいったん「本論」についての全般的な感想を書いて、しかるのちに世間の注目を集めた傍論に移ろうかと思います。
なにより、第三部というより「回答」全体を通じての感想になりますが、「質保証」と言うわけですが大学全入時代も近いといわれるこのご時世、いったいどこまで本当に「質保証」できるのか、というのが大問題ではないかと思うわけです。たとえば、第二部をみると、学部の教養教育で獲得されるべきコミュニケーション能力に関連して、こんなことが書かれています。

…現代にふさわしい「市民的教養」を考える上で、コミュニケーション能力は重要な要素である。
 なぜなら、他者との協働の能力を向上させることこそがコミュニケーション教育の目的だからである。公共的課題の発見とその解決においては、自らの価値観や視点とは異なる他者と出会い、他者の価値観や視点を理解し、協働する能力が求められる。同時に、自らの意見を論理的に構成し、交渉を通じて合意を生み出す能力も育成されねばならない。今後も、国内、国外を通して、異なる価値観や視点を持つ他者と協働する機会が増大することが予想され、そこでのコミュニケーション能力の育成は、教養教育の重要な課題である。(p.32)

…〈識字能力〉という狭い意味に解されたリテラシーは、先進国においては既に達成されたと考えられ、高等教育の課題としては意識的に取り上げられてこなかった。しかし読み書きは、言語の公共的使用の土台であり、話し言葉も、公共の場面で使用する場合(意見交換、交渉、教育、演説等)には、リテラシーを踏まえた談話能力を鍛える必要がある。この点については、ヨーロッパの伝統的な教育が、レトリック(弁論術、説得術)を教養教育・共通教育の中心に据え、言語の公共的使用能力の開発を図ってきたことが参考になるはずである。リテラシーは、それぞれの専門的な活動(職業、研究)を市民と公共社会に開くと同時に、市民と社会の側から専門にアクセスするための鍵である。リテラシーを通じて、各専門領域は社会の中にしかるべき場所を見出し、文化を構成する要素となる。市民が、文化的で品位のある生活を送るためにも、リテラシーは欠かせない。(p.33)

…グローバルな局面で、文化と言語を異にする他者と協同し交流する能力を育成するために、アカデミック・リーディング、アカデミック・ライティング、プレゼンテーションを核とする「英語によるリテラシー教育」を構想する必要がある。その際、異文化との接触において自らのあり方と立場を説明し理解してもらうことの重要性を思えば、日本事情・日本文化は学習内容の重要な要素となるはずである。(p.34)

コミュニケーション能力は「採用にあたって重視される項目」で筆頭の常連ですし、なるほどこうした能力を有する人は優れた企業人になれる可能性が高かろうと思うわけですが、しかし大学進学率5割を超えた全員に本当にこれ保証できるんですかと疑問に思うのは私だけではないでしょう。程度問題だと言われるかもしれませんが、それこそ「どの程度」というのが質保証においては決定的に重要なわけで。
ただ、この回答は大学の多様性・学生の多様性を重視しながら作成されているようですので、必ずしもすべての大学がハイレベルな質保証を行うことを想定していないのかもしれません。つまり、第二部で書かれているような教養教育を行って、高い訓練可能性の基盤となるようなリベラルアーツ教育の質を保証する大学もあれば、第三部で強調されているような「職業的意義」を強調した大学もあっていいと。これは教育関係者にとっては簡単にはとりにくい前提なのかもしれませんが、しかしこう考えたほうが現実的なように思われます。
つまり、第二部にあるような教育で、長期雇用で内部育成する幹部候補生となるべき「訓練可能性」の高い人材を質保証して送り出すような大学もある。まあ、常識的に考えて選抜度の高い銘柄大ということになるのでしょう。いっぽうで、そうした質保証は難しいけれど、特定職種に関する一定の知識、スキルの獲得を質保証するという大学もあってもいいのではないか、むしろ、進学者が多様化する中では、学生の実情に応じて大学はそうした教育・質保証を積極的に選択すべきではないか、というのが第三部の趣旨だと考えるわけです。そういう教育には専門学校とかあるよねえとも思うわけですが、現実に専門学校のような教育を行っている大学もありますし、下手すると高専どころか工業高校や商業高校の卒業生のほうが企業で使えるというレベルの「学士」だっていないわけではないというのも(例外と信じたいですが)現実で、あるものをないと言ってみても始まらないわけで。
これは、すべての学士は幹部候補生ではない、すべての学士にコミュニケーション能力とかの「訓練可能性」を求めないでほしいということでしょう。大学によっては、最初から幹部候補生ではない(もちろん結果的に幹部となる可能性はある)、基本的に特定職種での就労を通じて徐々に専門性を積み上げていく労働力としての質保証をする(もちろん、その過程でジェネリックスキルも向上する)から、企業もその知識・スキルを評価して、そうした労働力として採用してほしい、ということになるのでしょうか。それが「現在の正社員のように法的に強固な解雇規制を伴う雇用形態とは別の、新しい類型の「正社員」として位置付けて行く」(p.49)ということなのかもしれません。hamachan先生の「ジョブ型正社員」にも近いように思われます。
もっとも、基本的に職種転換はなく、勤続を通じて技能を高め、大半の人は初級〜中級の監督者にはなり、人によっては「現場で叩き上げて」店長や工場長などに昇進していくという働き方も、すでに普通に存在してきました。ただそれは、製造業においては端的に高卒者でもっぱら充当されてきましたし、営業職などでは大卒者の採用もあるものの、選考にあたってはもっぱら対人スキルなどを要求し、商品知識や営業ノウハウなどはやはり企業内育成していたわけです。
つまり、高卒者がもっぱら採用される職業においては、大学が企業内での4年間の訓練を上回る質保証をできなければ、大学の職業的意義は乏しいと考えざるを得ません(もちろん大学進学には消費としての側面など非職業的意義もありますので大学全体の意義まで乏しいというわけではありませんが)。従来から大卒者の就いていた職業については悩ましいところで、大学が特定職種の一定の知識・スキルを質保証したとしても、対人スキルなどのそれ以外の要素が考慮されなくなることはないわけで、企業の側が一定の知識・スキルと、その形成を通じて形成したジェネリックスキルを有する人材を採用するのか、それとも従来どおりに知識やスキルはなくていいからもっと高いジェネリックスキルを持つ人を採って知識やスキルは一から教えたほうがいいやと考えるのかは微妙です。これは実際にやってみなければわからないわけで、こうした大学教育が奏効すれば企業もそれを受け入れるでしょうし、その形が拡大していくだろうと思います(いずれにしても時間のかかる話なので、なんらかの当面の対応は必要ということになります)。
ただ、教育関係者にしてみれば、学生の多様性は自明のものとして前提できるにしても、こうした議論を導くような多様性は明示的にはなかなか容認できないのではないかと素人目には思われます。それゆえかどうかわかりませんが、第三部ではあたかもほぼすべての大学が「職業的意義」の教育と質保証を行い、企業もそれに対応した採用・人事管理をすべきだといった論調になっています(一応、職業的意義を重視しない大学はあってもよく、ただしそういう大学は実在しない職業的意義を提示してはならない、という記述はありますが)。その根拠も「あるべき姿」や「正当な評価」といった特定の価値観や、「知識社会の到来」といった抽象的なものに尽きています。これは教育関係者や、この「回答」に近い意見を持つ人は格別、一般的な読者にしてみればあまりに現状をかけはなれていて、現実的とは思えないという印象を与えるのも致し方ないのではないかと思います。となると、本論傍論にかかわらず、とりあえずマスコミがこれにはニュースバリューがないと判断するのももっともでしょう。まあ、本論も傍論も報道されない提言もいくらでもある(のではないかと思うのですが)わけで、傍論だけでも報道されたのですから一定の成功ではないでしょうか。