日本学術会議、「大卒後3年間は新卒扱い」を提言(2)

さて、一昨日公表された日本学術会議の「回答 大学教育の分野別質保証の在り方について」の第三部「大学と職業との接続の在り方について」をみていきたいと思います。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-k100-1.pdf
まず、「1.若者を取巻く困難」から説き起こされていて、まあたしかに前回の雇用調整期、あるいは現在の不況下において若年雇用情勢が厳しいことは事実です。長期化する就活が学生さんには大きな負担、先生方にも多大なご迷惑となっていることも問題でしょう。ただ、この現状認識はどうなのか。

…従来から、多くの企業は採用に当たって、積極性や協調性などの学生個々人の人間性や、将来的な「訓練可能性」などを重視してきたとされるが、近年、企業が学生に対して求める能力の要求水準が高まる、あるいは、若者一般に対する企業の評価が厳しいものとなってきていることが指摘されている。しかし、そこで要求される能力に関しては、一定の社会経験を積むことによって初めて身に付くのではないかと思われるような高度な対人能力や、常人では思い付かないようなアイデアを考える発想力、いままでの人生での大きな困難を克服した体験等、大学教育との関係が薄く、教育機関としての制度的な対応が困難なものを企業は最も重視しているということがしばしば言われている。
 こうした状況は、大学生の将来展望を不透明なものにし、…(p.42)

たしかに、前回の雇用調整期に、第三部でも後段で述べられるように「社会人基礎力」といったものが政策的に大きく取り上げられたことには問題があったでしょう。このブログでも過去再三書きましたが、根本的に需要不足が問題なのに供給サイドを改善しても目先の効果は限られているわけで、それと較べると上記のような認識を広げてしまった弊害の方が大きかったかもしれません。
ただ、「一定の社会経験を積むことによって初めて身に付くのではないかと思われるような高度な対人能力や、常人では思い付かないようなアイデアを考える発想力」というのは、需要不足の時期に企業に対して「どういう人材を採用したいのか」と訊ねて出てきた回答だということには注意が必要です。私は採用/解雇と結婚/離婚のアナロジーは好きではありませんが、例えていえばこれはまだ結婚するつもりのない人にどんな人と結婚したいかと訊ねたら「高身長、高学歴、高収入の人」という答が返ってきました、というのと構造的には同じです。実際、本文にもありますが、前回の雇用調整期のあと「景気の回復によって、就職を取巻く状況は一次的な改善を見せていた」時期には、こうした高い条件にあてはまらない人でも就職は良好だったわけで、たしかに企業の採用が傾向的に厳選化しているにしても、循環的な要因もかなり大きい(たぶんこちらのほうが大きい)わけなので、そこを混同すべきではないでしょう。
また、きのうのエントリでも書きましたが、「大学教育との関係が薄く」についても、先生方はそうお考えかもしれませんが企業サイドは必ずしもそうは考えていないということもあります。というか、第三部でもp.47の脚注38で、仕事との直接的な関連性が強くない分野においても「課題を学術的に分析し解決のための合理的な方策を検討すること等を通して、職業人として必要とされる汎用的な能力を高めることは十分に可能」と書いておられるではありませんか。
もうひとつ、ここでは企業の採用行動の変化が「大学生の将来展望を不透明なものにし」たと述べられていますが、教養教育を論じた第二部ではこうした議論がされています。

…90年代のバブル崩壊以降、日本の社会は、経済が低迷を続ける中で、世界的な変動の波に洗われることになる。グローバル化に伴うヒト・モノ・カネの流動性の高まりや、情報化、新興国の成長に伴う産業構造の変化は、地域間・階層間の格差の拡大を招いた。一方でこの間、大学進学率は更に上昇し、年齢別の人口比で遂に5割を突破するようになる。このような中で、以前に存在した自明性は社会の至る所で縮減し、大学教育を受けた人々であっても、長期安定雇用ではなく、条件の悪い不安定な生活を強いられる者が目立つようになった。(p.28)

ここでは大学進学率の上昇が経済環境の変化とともに「自明性の縮減」の原因とされています。というか、実は第三部でも後の方では

 若者の就職をめぐる問題の根底には、低成長時代に入った日本経済の下で正規雇用の縮小が進行する一方で、この間大学進学率が上昇を続け、大学卒業生の数が急増したため、労働市場における需給バランスが変化したという厳然たる事実がある。(p.43)

と記述されていて、なんだご承知の上なのかと思うわけですが、やはり経済環境の変化による需要要因と進学率上昇による供給要因の双方から議論したほうがバランスがいいように思われるわけで、どうも就職の悪化をなんとしても企業に帰責したいとの意図がはしばしに感じられて愉快といえば愉快なのですが、しかしこれって分野別質保証に関するものだったよねえと思うことしきりです。
さて、続いてわが国の雇用システムに関する記述に移るのですが…

…日本的雇用システムは、…恒常的な人手不足を背景として、企業に優秀な人材を囲い込む上で、重要な役割を果してきた。そこでは、長期雇用を前提とした手厚い企業内訓練が広く行われており、新規の採用者に求められたのは、(1)で述べた「訓練可能性」や、積極性や協調性などの資質であり、専門性に根差した実践的な職業能力は重視されてこなかった。
…一方、大学に関しては、…左右のイデオロギー的な対立が陰に陽に社会を分断する傾向が次第に強まり、…特に文科系の分野を中心に、教育を職業と関係づけて捉えることを、教育を産業に従属させることとして否定的に捉えるような傾向も広まった。
 職業能力形成への関心が総じて希薄な大学教育と、大学教育の成果を殆ど問うことなしに、企業内で能力開発を行う日本的雇用システムとの間での「大学と職業との接続」は、本来は互いに乖離しているものの間に成立した逆説的な親和性の上に、長期にわたって一見順調に機能してきたが、それはあくまでも経済の持続的な拡大という恵まれた環境を前提としたものだった。(p.43)

どうやらこの第三部では、第一部・第二部の記述にかかわらず、「職業能力」というと「専門性に根差した実践的な職業能力」のことを指すかなり狭義なもののようです。きのうのエントリでいえばiii-1に限られているのでしょう。
ただ、第二部で述べられているように大学では教養教育・共通教育も重要ですし(実際、第二部で述べられている能力は企業が採用の際に重視する項目とよく一致しています)、そもそもこれは学士課程の議論でしょうから、学部の4年間で教養教育と並行して習得できる「専門性に根差した実践的な職業能力」といってもなんぼのもんかねえというのが率直なところです。

 しかし平成3年のバブル経済の崩壊後、経済の停滞が続き、グローバリゼーションの下での競争圧力が強まる中で、以前のような長期雇用と年功賃金を保障した正規雇用を維持することは、多くの企業にとって負担となる。このため、非正規雇用に対する規制緩和がなされ、正規雇用を縮小して、非正規雇用を増大させる傾向が顕著となるが、その際に最も柔軟な運用が可能な「雇用の調整弁」とされたのが若者の新卒採用であった。また、長期雇用と年功賃金に基づく人事体系の変更は、正規雇用の働き方をも過酷なものにするとともに、それらを前提として行われてきた企業内教育訓練の在り方にも揺らぎをもたらしている。長期間の育成を要しない「即戦力」的人材への需要の高まりは、新卒採用において学生に対する要求水準の高度化(大学での学びとは直接に関係しない形での)と「厳選化」の傾向をもたらしていると言われる。(p.43)

「と言われる」ってそれは誰が言ってるんですか。この時期は技術革新が活発だったこともあり、たしかに「長期間の育成を要しない「即戦力」的人材への需要の高まり」はあったでしょうが、しかしそれは多くは中途採用による充当が意図されていたはずです。まあ、企業の側も安易に「即戦力」という用語を使ったということもあるかもしれませんが(とはいえもっぱら使ったのはマスコミだと思いますが)、新卒者に対してはそれはそれこそ「訓練可能性が高い」とか「自ら仕事を覚える積極性がある」とかくらいの意味で使われていたのではないかと思います。
要求水準の高度化や厳選化については採用予定数が減少したことの影響が大きいはずで、この第三部においては「若者を取巻く困難」の大半は循環的要因にともなうものであるにもかかわらず、その多くを構造的要因に帰そうとしている点で前提に大きな誤りがあるように思われます。実際、これに続いて前述した需給バランスの一文が挿入されるのです。

 若者の就職をめぐる問題の根底には、低成長時代に入った日本経済の下で正規雇用の縮小が進行する一方で、この間大学進学率が上昇を続け、大学卒業生の数が急増したため、労働市場における需給バランスが変化したという厳然たる事実がある。
 このような事態の下で、従来の「大学と職業との接続」が、大学での学習成果と職業上必要とされる能力との接続ということを閑却してきたために、学生は、大学教育を通して自身が身に付けた職業能力を殆ど主張できない状況で、しかも、不首尾に終わった場合のセーフティーネットもないままに、厳しい就職活動に臨むことを余儀なくされている。他方、企業においても、学生に対して大学教育を通して身に付けた職業能力を問う姿勢は依然として乏しい。こうした状況は世界的に見ても異例であり、大学教育の職業的意義を高めることを始めとして、大学と職業との接続の在り方を新たな形で調整してゆくことが必要である。(pp.43-44)

前回や今回の雇用調整期、中でも雇用失業情勢がとりわけ厳しかった時期には、極端な場合には「採用ゼロ」などという例もあったわけで、そうなるといかに「大学教育を通して身に付けた職業能力」を主張しようとも採用はかなり難しいというのはまさに「厳然たる事実」であり、企業の「学生に対して大学教育を通して身に付けた職業能力を問う姿勢」の有無とは無関係です。要するに、採用予定数が同じである以上、企業が「大学教育を通して身に付けた職業能力」を重視した採用を行えば、その分だけ従来なら「訓練可能性」(でもなんでも)を評価して採用されたはずの人が採用されなくなるだけでしょう。で、なにを重視して採用するかというのは基本的に各企業が判断することであって大学の先生が決めることじゃないと考えるのが常識的だと思うのですがどんなものなのでしょう。
大切なのはまずはなにより労働需要を増やすことですが、求人が増えてきたときに新卒時に良好な就職を果たせなかった人たちが「第二新卒」などの形ですみやかに良好な職につけるようにしていくこともたいへんに大切であり、「不首尾に終わった場合のセーフティーネット」はたしかに大切だと思います。それには職業能力を向上する適切なプログラムも含まれるべきだとも思いますが、しかしそれって大学がやることかなあとも思うわけです。
あと「こうした状況は世界的に見ても異例」というわけですが、そもそも日本の若年失業率の低さが世界的に見ても異例のものであって、それは日本企業が新卒を選好するという「世界的に見ても異例」な採用を行っているからでしょう。企業にしてみれば職業能力をどこで身に付けたかというのは問題にならないわけで、大学でも専門学校でも公共職業訓練校でも他の企業でも基本的には同じことです。「大学教育を通して身に付けた職業能力」を他の経路で身に付けた職業能力に較べて優遇するということにしない限り、現時点での職業能力重視の採用はむしろ大学新卒者の就職をさらに厳しくしかねないと思うのですが。

 その際には、教育の外側にある問題についても目を向けないわけにはいかない。大学教育の職業的意義を高めることにより、従来の大学と職業との接続の在り方を改善したとしても、雇用の在り方が現状のままであれば、多くの者がディーセントワークに従事する機会からこぼれおちていくことになる。今般の世界同時不況が発生した際に、日本の経済とそれを支える雇用の体制が極めて脆弱であることを我々は痛感することとなった。もとよりこれは学生だけの問題ではないのであり、困難ではあっても、日本を取巻く世界的な環境の変化に対応して、今までの社会・経済の仕組みを構築し直す努力を行うべきであると考える。(p.44)

しかしこれは分野別質保証の(ryいやもちろん職業能力面での質保証という考え方も大切でしょうが、しかし大学がこういう質保証をするから企業はそれを採用しなさいというのは本末転倒ではなかろうかと。いや質保証以外の部分でインセンティブを与えれば採るかもしれませんがそれも変な話ですし、本当に大学が全部そうなってしまえば企業はそこから採るしかなくなるわけですが、しかし企業がこういう人材を求めているからそういう人材を質保証して送り出します、というのが学生にとってもいい大学で、そうでない大学は存続できなくなるのでは?まあその「こういう人材」というのが多様であっていわく言い難いとか、結局は「訓練可能性」みたいなものが強く求められていて「大学教育を通して身に付けた職業能力」はあまり顧みられないとかいった、先生方にはお気に召さない状況があるわけですが、しかし世の中思うにまかせないのが通常なわけで…。
なお「ディーセントワーク」については脚注がつけられていて、

 ここでの「ディーセントワーク」とは、個人の能力と貢献を適切に反映した賃金やワーク・ライフ・バランスを可能にする労働時間のみならず、個人の継続的な向上可能性の展望が開かれているような働き方を意味している。

ソマヴィアの意味とは違うよということのようですが、しかし現状の新卒初任給は多分に将来的な期待を織り込んでいて現時点での「個人の能力と貢献」に較べて高い水準に設定されていると言われているわけで、したがって新卒者の「個人の能力と貢献を適切に反映した賃金」は現状より低くなる可能性があると思います。まあ、学部4年間で「大学教育を通して身に付けた職業能力」がある分は下がり方が小さくなるのかもしれませんが、しかしそれで失われるものもあるわけですし。長くなってきたのでさらに続きます。