江口匡太『キャリア・リスクの経済学』

もうひとつ、「キャリアデザインマガジン」第92号に書いた書評を転載します。
なかなか面白く、人事担当者や企業内労組の役員といった人たちにはいい勉強になる本だと思うのですが、結構ほめ方が難しいというか。わかったようなわからないような書評になってしまいました。

キャリア・リスクの経済学

キャリア・リスクの経済学



 『キャリア・リスクの経済学』という書名ではあるが、もっぱら自らのキャリア開発に関心がある人にとっては役立つ本ではない。「経済学」とはいうものの経済学のテキストでもない。何の本かといわれれれば、「人事経済学の本」ということになるのだろうか。まあ、人事とキャリアは切っても切れないし、リスクは経済学の重要なファクターだから、人事経済学の本の書名としてはありうるものかもしれない。
 そこで人事経済学だが、組織人として職業人生を送っている人にとって、人事管理や人事制度はその人生と密接不可分、最大の関心事項のひとつであろう。その巧拙が組織や個人の意欲や生産性、ひいては業績にも大きく影響することは、多くの人が経験的に知るところに違いない。
 人事管理の難しさは、理屈で割り切れないところにあるといわれる。実際、人事管理の現場で重視されるのは理屈や筋より「納得」であって、むしろ理屈は納得を得るための材料のひとつというのが実態だ。納得できれば筋はどうあれ意欲は高まるし、個別個人に対する人事管理のレベルに至れば「100%納得はできないが、まあこんなもので仕方ないか」ということでそれなりのやる気を維持しているというのが多くの職場の現実の風景だろう。実際、「納得」を優先した結果、多岐にわたる人事制度を詳細にみればあちこちに矛盾や齟齬がみつかるというのがむしろ普通だろう。
 こうした特徴ゆえに、人事管理や人事制度に対しては、事象をモデル化し、理論的に分析する経済学の手法は直接には役立ちにくいとされてきたようだが、1990年代に入って、労働経済学者の間でそれに取り組む動きが活発となった。そこで発展したのが「人事経済学」だ。
 その代表的なテキストである樋口美雄(2001)『人事経済学』生産性出版によれば、「企業の人事管理には経済学的な発想が不足している」のだという。実際、そのとおりなのかもしれない。しかし、人員の適切な確保と適材適所の配置や、従業員に対する効果的な動機づけなどが人事管理の最大の役割であることを考えれば、これは本来、資源の最適配分やインセンティブとモチベーションといった経済学の考え方と高い親和性を持つものであろう。であれば、そこにはたくまずして経済学的な発想が取り込まれているのかもしれないし、逆に経済学の考え方によって人事管理・人事制度の合理性を説明できる可能性もあるだろう。
 この本は、わが国の人事管理のさまざまな局面について、さまざまなデータを踏まえて、人事経済学の理論によって解説することを試みた本といえるだろう。第1章では人事評価や成果主義などを取り上げ、もっぱら契約理論を用いて「評価の誤差が小さい場合には賃金への反映は大きく、誤差が大きい場合は反映は小さいものとすることが望ましい」などといった、一般的に行われている人事制度の合理性が説明される。第2章は昇進と賃金制度などが取り上げられ、年功賃金が合理的となる状況が述べられる。第3章は技能形成をめぐる内容で、人的資本の理論を援用して企業による技能形成が合理的となる状況や、その条件として後払い賃金や長期雇用が必要となることが示される。
 第4章は採用と転職、非正規雇用アウトソーシングの活用などが取り上げられ、成果が測定しやすく仕事の条件が明確にしやすい仕事はアウトソーシングされやすく、それが難しく、状況に応じた柔軟な対応が必要な仕事については直接雇用が有利であることが、不完備契約の考え方を用いるなどして紹介される。第5章では、情報の経済学や組織の経済学の考え方によって、組織における情報伝達や権限、人事異動や転勤、さらには内部告発、あるいは企業内コミュニケーションにおける労働組合の役割といったものまで考察される。
 第6章は雇用調整にあてられる。賃金の下方硬直性や訴訟の経済合理性が取り上げられた後、雇用保障・解雇規制について評判のメカニズムの観点で解説される。さらに、有期雇用の期間、更新などについても検討される。
 通読してみると、特に企業内の人事管理・人事制度を検討した部分を中心に、これまで各企業において積み上げられてきた人事管理のノウハウが、経済学の考え方に照らしてもかなり合理的なものになっていることがわかるだろう。理屈ではないといいながら、けっこう理屈にも合っているのだ。もちろん、著者としても経済学の理論ですべてうまくいくとも考えていないだろうが、それにしても逆に、経済学の考え方にあわない人事管理を行っているとしたら、少し考え直してみる手間をかけてみる値打ちはありそうだ。たとえば、一時期流行した成果主義がもうひとつうまくいかなかったのも、本書第1章の記述を読めばかなり納得いくものと思う。
 つまり、この本の読者として想定されるのは、まずは企業の人事担当者ということになるだろう。もちろん、経済学のテキストではないにしても経済学の本であることは間違いないのだから、極力わかりやすく読みやすく書く努力は感じられるものの、小説のように読み進めるわけにはいかない。いっぽう、そもそも人事管理も人事制度も細かく議論しはじめればキリのないものだから、やや強引に割り切りすぎていると感じられる部分もないではない。逆に、かなり高度な理論をごく判りやすく解説しようと努力していることからくる限界もあるかもしれない。また、理解を助けるために数式が用いられている部分もあるので、「文系」で数式やギリシャ文字にアレルギーのありがちな人事担当者にはややとっつきにくい印象もあるかもしれない。とはいえ、多少の困難をおしても読む値打ちの大いにある本だと思う。さらには、仕事の現場で日々現実の人事管理にあたっている管理監督者には大いに有益な内容だし、人事管理の対象である働く人たちにとっても関心を持てる本ではないかとも思う。価格なども考えると、それほど広くすすめるわけにもいかないかもしれないが…。