玄田有史『人間に格はない−石川経夫と2000年代の労働市場』

「キャリアデザインマガジン」第92号に掲載した書評を転載します。
この本では師弟の交流を描いた「解説コラム」にも大いに読みどころがあるわけですが、ここではあえて研究書としての側面を強調した評にしてみました。これは一応「学会」の公式メディアであるという位置づけもさることながら、こうした師弟関係についてあれこれと述べるのは(著者の師への傾倒ぶりをよく承知していることもあって)いささか気がさしたというのも大きな理由です。結果的に、良書への関心をかき立てる、読みたいと思わせるという「書評」の最大の目標は果たせずに終わってしまった感があるのが心残りではあるのですが。

人間に格はない―石川経夫と2000年代の労働市場

人間に格はない―石川経夫と2000年代の労働市場

 この本の書名は『人間に格はない−石川経夫と2000年代の労働市場』、著者は故石川経夫門下の労働経済学者、玄田有史氏だ。この本はある意味書名のとおりの本で、「2000年代の労働市場」と「人間に格はない」という2冊の本を1冊にまとめたという印象のものになっている。「はしがき」によれば、もともとこの本は石川経夫氏の伝記として構想されたものであり、それが愛弟子を慮る遺族の意志によって、こうしたユニークな形の本となったのだという。
 その中心は2006年以降に著者が発表した、「2000年代の労働市場」を分析した研究論文に基づいており、したがってこの本は基本的に研究書であり、興味深い発見を多く含んでいる。加えて、各章の最後には、故石川経夫氏の著者に対する薫陶の回想をまじえた解説コラムが付されている。書名の「人間に格はない」も石川氏の言葉だというが、ありし日の石川氏の研究者としての姿が生き生きと描き出され、著者の恩師への傾倒と研究にかける思いとが伺わて心に残るものとなっている。
 第1章は2000年代に論点としてクローズアップされた「格差」の経済学的な意義が考察される。石川氏による「(経済学が)市場的評価のレベルで問題とすべき「真の賃金格差」が存在するのは、同一の能力・嗜好を持ちながら同一の所得機会に恵まれない人々のいる場合」との定義が紹介され、その今日的な課題が敷衍される。第2章では労働市場の世代効果が取り上げられ、新卒時の労働市場の需給状況がその後の長期にわたって賃金や雇用の安定などに持続的に影響することが示される。これを外部労働市場の働きによって解消するため、労働者の能力や経験に関する評価機能の改善が求められるという。
 第3章では若年無業が分析される。年収の高い世帯の若年ほど無業化しやすい傾向があるいっぽうで、低所得世帯の無業者も増えつつあり、就労しても低い所得しか得られそうにないことから、若年無業が貧困の再生産となりつつある可能性を示している。
 第4章は転職による非正規雇用から正規雇用への移行が分析される。失業率の低い地域ほど、あるいは専門性に基づく労働需要が強い職種ほど正規雇用に移行しやすいという結果に加えて、非正規雇用としての2〜5年程度の同一企業での継続就業経験が正規雇用への移行に効果があることが示される。これに対して第5章では同一企業内での非正規雇用の状況が分析される。内部/外部労働市場の二重構造の中で、外部に属する非正規雇用は勤続しても処遇が改善しないという通念に反し、非正規であっても勤続とともに処遇が改善する傾向が認められ、内部労働市場の一部に取り込まれているかにみえる例が少なからずみられることが示されている。第6章ではやはり非正規雇用から正規雇用への移行について、企業内移動と企業間移動とを比較調査している。企業内移動では仕事ぶりが認められ、職種・職場が踏襲されることが多いいっぽう、企業間移動では性格や人柄が重視され、職種・職場内容が異なることが一般的であることが示される。また、正規化後の年収は企業内・企業間による有意な相違はみられないことも示される。
 第7章は長時間労働の分析にあてられる。2000年代の特徴として勤続10年未満の短期勤続層の労働時間の増加が指摘され、それが離職を過大に誘発した可能性が指摘される。
 第8章では少子化問題に関連して、就業状況と性行動頻度との関係に着目した分析が行われる。若年者の無業と長時間労働の増加が性行動の消極化をもたらし、少子化に拍車をかけた可能性が指摘される。
 第9章では学校での職業教育が取り上げられる。職業教育がその後の仕事に役立ったり、所得の増加につながったりしているとの証拠は見出せないものの、受け手が有益と感じた職業教育は中途退職の抑制や正社員就労の促進につながっていることが示されている。内容的には「みずからの状況に応じて希望を修正発展させる柔軟性の体得」が仕事のやりがいを高めるという興味深い結果も示されている。
 第2章以降の各章はいずれもデータに応じた周到な配慮のなされた分析にもとづくものであり、その解釈には疑問もなしとはしないが、しかし事実関係の指摘としては説得力に富むものとなっている。著者はこれらの知見をもとに、「当面あるべき労働市場に関する結論とは、移動の促進ではなく、むしろ誰にとっても一定期間の定着を可能とする労働市場の拡充である」と主張するが、これもまことに実務実感に合致した結論であろう。これは著者も認めるとおり、恩師が理想とした流動的な労働市場のイメージとは異なっている。それは、恩師の理想の実現には「少なくない議論と試行錯誤の時間を要するだろう」ことに対して「非正規労働者など能力開発の機会に制約がある人々の状況を改善する」ことは「喫緊の課題」であり、その解決には「企業間での移動の促進よりも一定期間の同一企業への定着こそが職業人生の改選に実践的な意味を持つ」との考えによるという。結論は異なれど、事実と現実に立脚して人々の幸福を追求するとの著者の良心的な姿勢は、おそらくは恩師も了とするところではないかと思う。