異常と正常

今日アップされた、日経ビズプラスで連載されている経営法曹の丸尾拓養先生のコラムから備忘的に転載しておきます。お題は「労使関係の基盤となるもの」。

 使用者と労働者とを対立構造で見ることは理解を容易にする手法です。しかしながら、現場においては、両者の利益が共通となる場面も少なくありません。高度成長期から現在までを顧みても、労使が協調できた点が極めて高い意義を有することは明らかでしょう。もっとも、その労使協調の基盤には、一時期の厳しい対立の実体験とその後の互譲という共通感覚があるのかもしれません。これらを経験しない世代が中心となってきたとき、労使が求めるのは新たな調整ツールなのでしょうか、それとも相互の厳しい制約なのでしょうか。
…裁判紛争は、日常的な労使関係においては異常な状況です。異常なものをどんなに積み上げても、正常な状況を理解することに資することは少ないでしょう。もちろん異常に対処することが必要なことは言うまでもありません。しかし、本筋は正常な状況であり、これを維持安定させることが何よりも求められます。
 正常な状況では、労働法は不要とされます。就業規則ですら不要です。人事労務の現場では、残業命令が出されることはまれですし、転勤も合意で実現しています。人員削減も希望退職や自己都合退職といった合意もしくは労働者の意思で行われます。つまり、通常の現場では、労働法も就業規則も機能していないのです。

 2000年前後からの「失われた10年」と2008年の経済状況の急変を受けて、雇用を取り巻く環境も大きく変化しました。変動の影響を受けた部分や声の大きさにとらわれがちですが、変わらないもの、そして「変わってはいけないもの」も直視すべきであると思われます。
 おそらく、まじめに働いた人がきちんと評価されることです。このことは法を待つまでもありません。法の保護など必要がなくなります。法が機能する場面ではありません。これは多くの場合、正社員と重なるでしょう。しかし、雇用形態が異なる労働者であっても、適切に評価され雇用が保障される場面は少なくありません。そして、彼らは圧倒的な「サイレント・マジョリティー」です。
 経済情勢の変化を受けて、雇用に関して企業への規制を強化する動きもあります。しかし、法が機能するようになれば、企業は就業規則を機能させることになります。その対象はどのような労働者なのでしょうか。そして、このことが企業にとっても有益であるかは疑問です。

サイレント・マジョリティー」が安心して働けるようにすることが、何よりも企業の責務といえるでしょう。そして、この労働者を少しでも増やすことが企業には求められます。人事労務の現場の機能は、この意味でも「育成」なのかもしれません。この「育成」によって現場の経験や知識がより生きたものとなるのでしょう。
http://bizplus.nikkei.co.jp/genre/jinji/rensai/maruo2.cfm
(いずれhttp://rd.nikkei.co.jp/bizplus/jinji/rensai/u=http://bizplus.nikkei.co.jp/genre/jinji/rensai/maruo2.cfm?i=20100301ja001jaに移行すると思います)

月曜日に聴講した東大社研のパネルディスカッションで、山川隆一先生は「法学者が詳しく知っているのは(紛争に至った)異常事態だけ」という趣旨の発言をされていたので、このコラムも印象深く読みました。
たしかに、企業の現場、特にホワイトカラー職場ではほとんどの場合残業が都度上司から指示されることはまずありませんし、本人が同意しない転勤を強要しようとするのに対し本人が居座る、といったこともまず起こりません。そういう意味では、これらについて労働法や就業規則の出番というのはないともいえるのかもしれません。いずれにしても、労使がともに納得して紛争なく職場が運営されている「正常な状態」を維持することが重要なことは間違いないでしょう。
「「サイレント・マジョリティー」が安心して働けるようにすることが、何よりも企業の責務」というのも、まずそのとおりなのでしょう。丸尾先生は法律家なので「責務」という言葉を使われるわけですが、企業が存続し、利益を上げ、成長していくためにもこれは最重要なことの一つであるはずです。もちろん、「安心して働ける」の意味するところは働く人それぞれにより多様なわけですが。