森戸英幸『いつでもクビ切り社会』

いつでもクビ切り社会―「エイジフリー」の罠 (文春新書)

いつでもクビ切り社会―「エイジフリー」の罠 (文春新書)

もうひとつ、「キャリアデザインマガジン」第85号のために書いた書評です。

 近年、労働政策の理念、とりわけ高齢者雇用対策の理念として「エイジフリー」という用語がたびたび見かけられるようになってきた。その意味するところは「高齢者が意欲と能力に応じ年齢にかかわらず働き続けられる社会をめざすべき」というものであり、具体的にいえば「まだ十分働ける、働きたいのに定年で退職しなければならない定年制」をなくしたい、ということのようだ。高齢者だけではなく、たとえば雇用対策法では募集・採用時の年齢制限が原則として禁止されている。これも「エイジフリー」の考え方に沿ったものだろう。
 こうした考え方は、一見するとまことに正論であり、批判は難しい。実際、諸外国でも雇用における年齢差別を法律などで禁止している例は多い(ただし、米国を除けば定年制は一定条件のもとで容認されているようだ)。だから日本もそうすべきだ、という主張には根強いものがある。
 しかし、当然ながら話はそう簡単ではない。募集・採用時の年齢制限はまだしも、定年制はわが国では企業の人事管理に深く根付いている。それを禁止するといった「日本の雇用システムの根幹にメスを入れる施術は、当面は、年金財政問題という「病状」の改善にはつながるかもしれないが、長い目でみると、雇用システムの「健康」な部分までを病弱にしてしまうであろう。」なにごとにおいてもトレードオフはつきものであり、エイジフリーも例外ではない。どのようなトレードオフかというと、それが本書の書名である「いつでもクビ切り社会」である。定年退職がなくなれば、企業としてもさすがに死ぬまで雇用するわけにもいかない(それは文字通りの「終身雇用」ではあるが)ので、なんらかの理由で解雇を行う必要性が出てくる。年齢ではなく、能力や成果といった主観的な基準によって、何歳であっても解雇が行われる、それが「いつでもクビ切り社会」だ。それでもいいのか、というのが本書における著者の中心的な問題意識になっている。
 この本はまず、第1章でわが国におけるエイジフリーの考え方の広がりを紹介し、続けて第2章・第3章では定年制と継続雇用、募集・採用時の年齢制限といった法規制・労働政策とエイジフリーとの関係を概説す。さらに第4章では諸外国のエイジフリー施策を紹介する。その上で、第5章の冒頭で「エイジフリー社会はバラ色か?」と問いかけ、第5章では「いつでもクビ切り社会でいいのか」、第6章では「いつでも無礼講社会でいいのか」が考察されていく。エイジフリー社会では、労働者は60歳前から解雇の不安におびえ、企業も常に労働者を「選別」する、つらく困難な仕事を強いられる。これは、年齢という画一的だがわかりやすい基準による人事管理より優れているのか。「目上・目下」や「長幼の序」といった価値観が定着したわが国で、年齢に拘わらず「タメ口」で生活できるのか。もちろん、人によって様々だろうが、しかし政策を考える上ではこうした見地からの検討も必要だ、と著者は主張する。
 続く第7章では、これまでの記述をふまえてエイジフリー政策のあり方が述べられる。定年制については、年金支給との接続に留意しつつ、現行の年齢基準による政策の維持が望ましいとする。まことに妥当な見解であろう。募集・採用についても、定年制との考え方の整合性に配慮して、上限禁止をいったん棚上げし、理由説明義務を政策の軸とすべきという。これには議論も多いだろうが、有力な考え方かもしれない。
 最後の第8章では、著者のこうした見解にもかかわらず、わが国も今後エイジフリー社会の方向に向かうだろうとの悲観的な見通しが示され、それに備えて企業や働く人々はどうすべきなのか、といったことが語られる。残念ながら、かつ当然なことに、それは多くの企業は働く人々にとって好ましい内容ではない。著者はあとがきで「世の中のどんな事象にも、人間のどんな行動にも、ウラとオモテ、メリットとデメリットがある。その両方をバランスよく斟酌しなければ、物ごとの本質を捉えることはできない」と述べる。著者はこれを「法律屋チックで面白くもなんともない」というが、しかしこれこそリーガルマインドの重要な要素であろう。わが国の進路に賢明な判断がなされることを祈るばかりだ。
 もっとも、この本の文体はあまり法学者らしくなく、かなりくだけた表現で書かれていて、堅い内容のわりには非常に読みやすい。好みは分かれるかもしれないが、解説書としては重要なポイントであろう。「難しそう」と敬遠せずに手にとってもらいたい本だ。