2009年版経営労働政策委員会報告

一昨日発表された経団連の「2009年版経営労働政策委員会報告」ですが、さっそく拾い読みしてみました。
最も注目されているであろう春季労使交渉に対するスタンスについては、「第2章 今次労使交渉・協議における経営側のスタンスと労使関係の深化」に「2.今次労使交渉・協議に向けた経営側の基本姿勢」という項目があります。そこではまず最初に「(1)雇用の安定を重視した交渉・協議」という項がわざわざ立てられていて、それに続いて「(2)生産性を基軸とした人件費管理」などの具体論が記述されています。
『2008年版』ではどうだったかというと、やはり「第2章 日本型雇用システムの新展開と今次労使交渉・協議に向けた経営側のスタンス」に「2.労使交渉・協議に向けた経営側の基本姿勢」という項目があって、基本的な構成は2009年版も変わっていないことがわかります。ただし、2008年版では「春闘から春討へ」という前振りに続いてすぐ「(1)生産性を基軸とした人件費管理と賃金・評価制度の再構築」に入っていました。つまり、2009年版はあえて賃金の具体論の前に「雇用安定重視」を基本方針として掲げているわけです。もっとも、具体的な記述はいたって短く、こういうものです。

 これまで日本企業は雇用の維持・安定に努めてきており、それが人的資本の蓄積となったほか、労使の信頼関係の構築や従業員の忠誠心・チームワークの醸成の土台となり、競争力の源ともなってきた。
 時代の変化が激しく、日本的経営も変化しつつあるが、守るべきは守るという姿勢をもつことが大切であり、経営環境がとりわけ厳しい今次の労使交渉・協議においては、雇用の安定に努力することが求められる。
日本経済団体連合会『2009年版経営労働政策委員会報告 労使一丸で難局を乗り越え、さらなる飛躍に挑戦を』から、特記しないかぎり以下同じ)

これまでが「雇用の維持・安定」で、今次交渉では「雇用の安定」と、「維持」が落ちているのがいかにも意味ありげです。経団連の中村事務総長は記者発表時の会見で、この「雇用の安定」には非正規雇用も含む、とコメントしたそうです。いっぽう、これまでの日本企業が「雇用の維持・安定」というときには、暗黙のうちに「正社員の雇用」が念頭におかれていたというのが実態ではなかったでしょうか。1995年に経団連が定昇した「自社型雇用ポートフォリオ」は、従業員を大きく「長期蓄積能力活用型(従来の正社員)」「高度専門能力活用型(正規・非正規とも)」「雇用柔軟型(非正規)」に三分し、「雇用柔軟型」についてはもっぱら景気や需要の変動に対する雇用量の柔軟な調整が主たる意図とされているところをみても、維持・確保するのは「正社員の雇用」だと考えられていたことは明らかでしょう。そして、先回の雇用調整期で過剰雇用に四苦八苦した企業は、この考え方を採用して労働需要が高まってきた際にもまずは非正規雇用を増やし、その結果費正規比率が5分の1から3分の1くらいにまで高まりました*1。これがおそらくは、経労委報告のいう「時代の変化が激しく、日本的経営も変化しつつある」ことのひとつの側面なのでしょう。とはいえ「守るべきは守る」。さて、なにを守るのか?「正社員の雇用の維持・安定」これは守るのでしょうが、非正規まで含めた雇用全体はどうか?そこまで含めると「雇用の安定」という表現になる、つまり、非正規については安定に配慮するが維持するとは限らない。そう読めば読めないこともない文章です。
さて、それに続く「(2)生産性を基軸とした人件費管理」では、まず「三つの視点を念頭においておく必要がある」として「国際競争力の維持・強化」「付加価値増大を追求するための環境整備」「総額人件費管理」があげられています。二つめがわかりにくいですが、公正な賃金配分、人材育成への投資、ワーク・ライフ・バランスへの投資などがあげられています。ワーク・ライフ・バランスを投資としてとらえようというのは経団連らしい発想ですね。
で、これも2008年版と較べてみると、「(1)生産性を基軸とした人件費管理と賃金・評価制度の再構築」ではやはり「三つの視点」として「グローバル競争」「総額人件費」そして「わが国経済の安定した成長」があげられていました。この「安定した成長」に「企業と家計を両輪とした経済構造」という文言が入っていたことがマスコミに「賃上げ容認」と報じられたわけですが、総額人件費のパイを拡大するための付加価値増大、経済活性化という意味では2009年版の二つめと同様であり、そう考えれば基本的な視点は2008年版と2009年版で違いはないといえそうです(視点は同じでも、経済環境が違うので見え方はかなり違っているようですが)。
そして、これら「三つの視点」を踏まえて、2009年版はこう述べています。

…総額人件費の決定に際しては、自社の支払能力に即して判断すべきであり、需給の短期的変動などによる一時的な業績変動は、賞与・一時金に反映させることが基本となる。一方、恒常的な生産性向上の裏づけのある付加価値の増加分については、特定層への重点的配分や人材確保など自社の実情を踏まえて総額人件費改定の原資とすることが考えられる 。
 なお、企業の減益傾向が一層強まる中、ベースアップは困難と判断する企業も多いものと見込まれる。

2008年版はどうだったか、較べてみましょう。

…賃金をはじめとする総額人件費の決定に際しては、引き続き自社の支払能力を基準に考えていかなければならない。…恒常的な生産性の向上に裏づけられた付加価値額の増加額の一部は、人材確保なども含め総額人件費改定の原資とする一方、需給の短期的な変動などによる一時的な業績改善は賞与・一時金に反映さえせることが基本である。…全規模・全産業ベースでは増収増益基調にあるとはいえ、企業規模別・業種別・地域別に相当ばらつきがみられる現状において、賃上げは困難と判断する企業数も少なくないと予測される。
日本経済団体連合会『2008年版経営労働政策委員会報告 日本型雇用システムの新展開と課題』から)

とまあ、考え方はまったくといっていいほど変わってないんですね。ただ、2008年は全体的には増収増益基調だった(ほんの1年前はそうだったんですよねぇ)ので、業績のばらつきを念頭に「賃上げは困難と判断する企業数も少なくないと予測」するにとどまっていた(もっとも、それも報告が発表された2007年末時点の話で、現実に交渉が行われた2008年春には原材料価格高騰などで経済環境・企業業績はかなり厳しくなっていました。それでも、今にくらべればずいぶんマシだったわけですが…)のに対し、2009年版は現状を反映して「ベースアップは困難と判断する企業も多いものと見込」んでいるという違いはあります。でも、これとて「少なくない」と「多い」の違いでしかないわけではありますが、それは小さくない違いでしょうが…。
ただ、2009年版では「雇用の安定」のほかにもいろいろ付け加えられていて、それが「賃上げ困難」の印象を強めているということはありそうです。具体的には「ところで、賃金交渉の妥結結果に対しては、とかくベースアップの有無ばかりがクローズアップされがちであるが、多くの企業においては査定昇給や昇格昇給などが実施されており、従業員一人ひとりの成長や貢献度の向上を反映して、賃金は対前年比でみて上がっている場合が多い。」という記述があります。これは、前述の「自社の実情を踏まえて総額人件費改定の原資とする」ことへの脚注として小さく「今次労使交渉・協議では、労働組合から消費者物価の上昇を理由とした賃金引き上げ要求も想定されるが、賃金決定は自社の支払能力に即して行なわれることが大原則であり、外生的要因による物価変動が賃金決定の要素となることはない」とさりげなく?書かれていることとあいまって、「定昇相当分で物価上昇はカバーできるんだから、物価上昇を理由にしたベアはのめないよ」というメッセージを感じさせます(意図しているかどうかは別ですが)。もちろん、定昇があってもベアゼロだと物昇分は実質賃下げになってしまいますので、労組としてはこの理屈はおよそ呑めないでしょうが…。
しかも、この「2.今次労使交渉・協議に向けた経営側の基本姿勢」の前後を【労働分配率は賃金決定の基準とならない】【第一次・第二次オイルショック時の状況とその教訓】という二つのコラムではさんで固めているという念の入りようです。前者は、労働分配率は循環要因に大きく影響されるので、「企業と従業員にとって重要なことは、企業の継続的発展であり、労働分配率を単純な分配論争の指標に使うのではなく、内外の経営環境の状況や変化を様々な角度から検討し、企業の中長期的な成長に向けて建設的に議論していくことである」という経団連の従来からの主張を繰り返したもの(ちなみにこの主張はまことに妥当だろうと思います)。後者はオイルショック時の「管理春闘」の経験を振り返ったもので、要するに生産性の向上をともなわない賃上げは価格転嫁を通じてインフレを招くだけで実質賃金の上昇にはつながりにくい、というかねてからの主張を繰り返すものです。「生産性基準原理」がこうしたコラムの中で触れられているのをみると、生産性基準原理も歴史上のものになりつつあるのだろうか、という感もあります(生産性基準原理そのものはマクロ経済の恒等式ですから、別に歴史上もなにもないのではありますが)。
まあ、基本的な考え方に変化はないわけですから、ここまで経済や業績が厳しくなれば交渉に対するスタンスも相応に厳しくなるのが当然というものでしょう。労働サイドの予想される主張に対してかなり念入りに反論しているという印象です。

*1:これが結果として、今回の異例に急激な経済環境悪化、大幅減産に対して、従来になく雇用調整を速く(追いついているとまでは言えないまでも)進められていることにつながっているわけで、そういう意味では自社型雇用ポートフォリオはたしかにその趣旨にてらして効果的であることは証明されたわけです。これに対する評価はいろいろあるでしょうが。