大内伸哉『君たちが働き始める前に知っておいてほしいこと』

君たちが働き始める前に知っておいてほしいこと

君たちが働き始める前に知っておいてほしいこと

「キャリアデザインマガジン」第80号のために書いた書評です。書評のわりには、自分の言いたいことを書いている部分が多いですが(^^;;;;


 厚生労働省は、この8月から「今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方に関する研究会」を開催している。「非正規労働者の趨勢的な増加や労働契約の個別化、就業形態の多様化等が進む中、労働関係法制度をめぐる知識、特に労働者の権利に関する知識が、十分に行き渡っていない状況が問題として指摘されている」という問題意識のもと「労働関係法制度をめぐる実効的な教育の在り方を提示していくことを目的として開催するもの」であるという。実際、この研究会に提出された資料をみると、労働者の権利理解の状況はあまり進んでいるとはいえないし、不利な就労形態、労働条件で働いている人ほど理解が低いという傾向も指摘されている。
 こうした問題意識は、これまでもたびたび指摘されてきた。たとえば、今日の若年雇用問題に関する最初期のまとまった文献である玄田有史(2001)『仕事の中の曖昧な不安−揺れる若年の現在』(中央公論新社、2005中公文庫)は、その最終章で高校生に向かって「就職先でトラブルにあったら労働基準監督署に行こう」と呼びかけている。法的に保証された権利を知らない、あるいは知っていても救済を受ける方法を知らないがために、離職したり、不利な労働条件に甘んじたりしている実態があるとすれば、それはたしかに解消すべきものであろう。
 この本は、最初に「卒業後に、就職したり進学してアルバイトをしたりすることになる高校生を主たる読者と想定して、働く際に身につけておくべき基本的な法的知識を説明したものです」と書かれているとおり、そのためのテキストといった趣のものである。56ページの小さな本であり、現実に働いたときに身近なものとなりそうな20のテーマを取り上げ、平易な表現で法律の解説を試みているのに加え、「困ったときの相談先」や労働組合の役割も説明されており、巻末には都道府県労働局の一覧と労働基準法の抜粋、そして行政が作成した労働条件通知書の様式が掲載されている。労働法をすべて網羅しようとすると膨大なものになるし、正確な解説を期すればどうしても難解で読みにくいものとならざるを得ない。行政も同様の問題意識からか類似の啓発資料を作成しているが、たとえば東京労働局の作成した「ポケット労働法2008」をみても、分量は123ページに及び、文章も平易が心がけられているとは感じるものの、読みやすいとまではいいにくい。この本は、対象者を「主に高校生」に限定し、内容を彼ら・彼女らにとって身近なものとなりそうなものに絞り込むとともに、詳細は思い切って省いて原則の説明に大半を費やし、文体も口語調の若者が親しみやすいものとするなど、並々ならぬ苦心でこれらの課題に取り組んでいる。800円という価格は普及の上で微妙なところだが(上述の「ポケット労働法」はネット上で公開されている。http://www.hataraku.metro.tokyo.jp/siryo/panfu/panfu05/pdf/all.pdf)、この努力は多とすべきものだろう。
 ただ、この内容だけでよいのかといえば、もとより十分は期することが難しいわけではあるが、不満も残らないではない。その最たるものは「企業内での解決」という観点が欠落していることで、実はこれは最初に紹介した「今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方に関する研究会」でもそうした傾向がみられる。たしかに、たとえば年次有給休暇の取得を申し出たときに「この忙しいときに何を言ってるんだ」とか「わが社にはそんなものはない」などと言い出す程度の低い使用者もまだまだいる、というのは、残念ではあるが悲しい現実だろう。それでも、「これこれこのように段取りして、仕事には支障のないようにしますから」と説明すれば「そうか、だったら休みなさい」と円満におさまる可能性も決して低くはないのに、いきなり「年次有給休暇は法的に保障された労働者の当然の権利です」と労働基準監督署に駆け込んだとしたら、仮に休暇はとれたとしても、その後に大きな禍根を残すリスクは高い。もちろん、行政の監督に頼らざるを得ない石頭の子どもじみた使用者もいるわけだが、そういう場合もなるべく事を荒立てずにうまく運ぶのが大人の知恵というものだろう。まあ、ここまで望むのは高校生対象の本にはないものねだりかもしれないが…。
 さらに言えば、「今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方」という観点からは、労働者の権利の拡大が経済や労使関係の発展段階に応じてどのように実現されてきたのか、ということの理解をはかることが大切ではないかと思う。もちろん、不屈の労働運動によって権利の獲得が進んでいった時代もあるが、国家経済の発展、労使関係の安定・成熟にともなって、政労使の三者による話し合いで問題の解決や権利の拡大がはかられたり、労使協調による生産性向上の成果を労働条件の向上を通じて権利の拡大に結び付けていくという枠組みも整えられてきた。わが国でもほんの20年前にはまだ週休1日、法定週48時間労働が一般的だったが、現在では週休2日、法定週40時間が広く定着している。こうした大きな成果が実現できたのは、国の政策的支援もさることながら、個別労使が生産性向上と労働時間短縮にそれぞれ努力したことの積み上げに他なるまい。権利の実現をはかるということは、実は労使がよい職場、よい会社を作るために努力することに他ならないということは、しかし現実の職場、会社においてでしか教育できないことなのだろうか。だとすれば、今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方におけるOJTの意義と労使の役割はまことに大きい。