いじめられたらもっと弱いものをいじめようということか。

職場で「週刊ダイヤモンド」3月8日号が回覧されてきました。表紙に大書された特集名は「働き方格差 生涯賃金ギャップ「2億円」の不条理」。
今のところブログが追いついているので(笑)何日間も引っ張るつもりはありませんが、目に付いたところを拾っていきたいと思います。
ということで、最初から順に行ってもいいのですが、いつぞや取り上げた「希望は戦争」の赤木智弘氏のインタビュー記事が掲載されていましたので、まずはそれからご紹介していきたいと思います。お題は「「経済合理性」が生んだ搾取の構造 社会と企業は新たな“軸”を持つべき」というものです。さっそくみていきましょう。

 正社員として働くことのできないニートやフリーター、とりわけ三〇歳を超えた者の現状はきわめて厳しい。
 収入の少なさはもちろん、「フリーターは働いていない」「正社員になれないのは努力が足りないから」などの自己責任論によって一方的に責め立てられ、必死に働いたとしても一人の人間としての生活や尊厳を十分に保つことすら困難だ。
 しかし、フリーターの増加は決してフリーター本人の責任ではない。フリーター増加の背景にはバブル崩壊による経済状況の急激な失速があることを忘れてはならない。企業は利益確保のために新卒採用の門戸を狭め、正規雇用を減らした。そしてそのぶんを非正規雇用で補い人件費を抑制していった。
 そうした行為は経済界や株式市場からは「正しい企業努力」と評価された。すなわち、経済界は意図的にフリーターを増加させたのである。
(「週刊ダイヤモンド」第4219号(2008年3月8日号)から、以下同じ)

価値判断の入った部分は論評しませんが、後段の雇用調整・労働市場の影響を指摘している部分はまことにそのとおりです。ただ、最後の「経済界や株式市場からは「正しい企業努力」と評価された。すなわち、経済界は意図的にフリーターを増加させた」というのはちょっと違うでしょう。たしかに、市場関係者の相当部分が人員のスリム化を「正しい企業努力」と評価したことは事実ですが、まだ企業努力が足りない、もっとジャンジャン解雇を行わなければ正しい企業努力とはいえない、という市場関係者も多数存在しました。経済界にしてみれば、急速に発言力を高めたこれら市場関係者などの声に押されて、疑問を持ちながらもやむなく彼らのいわゆる「正しい企業努力」の実施を迫られた、というのがむしろ実態だったのではないかと思います。また、市場関係者が「正しい企業努力」を求め、経営者がやむなくそれに従ったとはいっても、それはフリーターの増加を意図していたとは考えにくく、フリーター増加は意図せざる「結果」にすぎないでしょう。当事者からするとこうした見方をしたいというのは情においてよくわかるのですが…。

 社会がフリーターに対し、正社員になることを要求するのなら、企業側が求める“努力”によってスキルを得ることを問題にするのではなく、フリーターを雇う意思を問題にするべきだ。もし、企業側にフリーターを正社員として雇用する意思がない状況でスキル向上の努力をしたとしても、生まれるのは「良質なフリーター」でしかない。そして企業側は良質なフリーターを安い賃金で搾取するだけである。

「社会がフリーターに対し、正社員になることを要求する」というのは、「多くの若年が職業能力を高めることができる有意義な仕事に就きにくい状況が続くことは、若年本人にとってだけでなく、国家経済・社会にとっても損失だ」という社会的コンセンサス(と言っていいところまできていると思うのですが)のことを指しているのでしょうか。これに対しては赤木氏も特に大きな異論はなかろうと思うのですが、こうした意見を述べる人の多くは、なにも正社員になりたくないフリーターまで正社員になることを求めているわけではありません。たしかに、単細胞な自己責任論を述べる輩もいて、赤木氏がそれに立腹するのももっともなのですが、そういう主張は耳障りであってももはや政策的に有力ではありません。「社会がフリーターに対し、正社員になることを要求するのなら」社会がフリーターに当然になにかをすべきだ、とまで求められるような状況ではないでしょう。
「企業側が求める“努力”によってスキルを得ることを問題にするのではなく、フリーターを雇う意思を問題にするべきだ」というのは、スキルではなく「雇う意思」すなわち「労働需要」こそが重要だ、という点において核心をついています。で、「企業側が求める“努力”によってスキルを得ることを問題にするのではなく」といいますが、企業が仮に「スキルを得る努力」を求めているとしても(大半は「企業はそう思っているだろう」と思い込んでいる一部の学者や評論家が言っているだけのような気がするのですが)、それは「労働力が必要になったときには、必要の程度に応じて『経験・能力次第で採用する』」という程度のものです。つまり、人手が余っていて困っているときには、いかに経験豊富で能力の高い人でも正社員採用しにくいでしょうが、人手が足りなくて困っているときには、多少経験や能力に不満はあっても正社員採用して育成しよう、ということになるわけで、そのときにすでに経験や能力を高める努力をしておいた人は有利でしょう、というくらいの話なのです。
ですから、「企業側にフリーターを正社員として雇用する意思がない状況でスキル向上の努力をしたとしても、生まれるのは「良質なフリーター」でしかない」というのは、労働需要の乏しい時期には正社員採用も乏しいという意味においてそのとおりなのですね。で、労働需要が増加してくると、良質なフリーターから順に正社員採用されていくわけです。労働市場の需給によって労働条件が決まってくることを「搾取」と呼びたいのであれば、それはご自由です。

 企業側にはかつてのような「従業員の生活に責任を持つ」姿勢はいっさいない。それもこれも経済合理性が世界全体を貫く主軸となってしまったことが原因である。そうした世界では、人間は経済を支えるための手駒でしかない。いわば「経済の自由」を維持するために、人間が搾取される構造になってしまっている。
 ニートやフリーターの増加などの社会問題を考えるとき、そうした「経済の自由」の対抗言論を考え、「労働者に対する社会や企業の責任」を定義し直す必要があるのだ。だが、「経済の自由」と同等の意味を持ちうる別の軸は、新たに創造されるものではない。そうした軸は、素朴であり、しかし力強い生得的なものであるはずだ。
 その一つが「愛国心」だろう。たとえば「フリーターが正社員によって奴隷のように搾取されていることは正しいのか?」といった同胞を愛する感情は、有効な対抗軸となりうるのではないか。また、かつての家族形態を復興させ、男女のどちらかが働いて生活費を稼ぎ、それを結婚により再配分するような、「家族軸」も有効かもしれない。
 こうした複数の軸を社会につくり出すことによって、社会や企業にフリーターを正社員として雇用する意思や必要性、雇用機会が芽生えるのではないだろうか。

芽生えない、芽生えない(笑)。まあ、正直言ってこのあたりからの議論には私はついていけないというのが率直なところですが、私の単純な発想では、経済が活性化して労働需要が生まれればおのずと「企業にフリーターを正社員として雇用する意思や必要性、雇用機会が芽生える」ことになるというのが普通の考え方のように思われますし、それが一番の近道であるようにも思えます。まあ、「経済の自由」(ってなんだ?)=搾取=悪、という前提によって、こういう考え方はハナから排除されてしまうのかもしれませんが…。
さて、「企業側にはかつてのような「従業員の生活に責任を持つ」姿勢はいっさいない」ということですが、まあたしかに生計費賃金や家族手当のような属人給を縮小する傾向にあることは間違いないでしょう。しかし、「いっさいない」かというとどんなもんでしょうか。たとえば社宅なんかはまだたくさん残っていますし、子どもに対する家族手当を拡充する動きも最近目立っています。普通に考えて、生計費に対する一定の配慮がなければ人材の確保に支障をきたすことは目に見えているのですが…。
で、「フリーターが正社員によって奴隷のように搾取されている」というのは、この特集でもたびたび出てくる「非正規の処遇を低く抑えることで正社員の優遇が確保されている」ということを文学的に述べたのでしょうが、「同じ日本人なのに、こんなに差があるのはかわいそうだよね」という同胞愛が強まったとしても、その射程は(この特集全体をみてもそういう感じがしますが)およそ「正社員の賃金を下げて非正規の賃金を上げる」というところにとどまるのではないでしょうか。「同じ日本人なんだから、同じ正社員にしようよ」という、ソ連の共同農場みたいな(??)ところまで行くかどうか。というか、そもそも同胞愛が根拠であれば、やはり政府による再分配によるのが自然な発想のような…。
「かつての家族形態を復興させ、男女のどちらかが働いて生活費を稼ぎ、それを結婚により再配分する」というのは、「かつての」と書いた直後にフェミニズムに配慮して(?)「男女のどちらかが」と書いているところがいささか日和見的(?)ですが、結局のところは、これはこの特集記事の最初のほうからの引用ですが、「高度経済成長期には、日本の一般家庭では、夫が正社員として働き、妻は家事をしながら副次的にパートで働いてきた。妻のパート勤めは家計の補助であり、夫と自分の給料を比べることもなかったし、格差が問題視されることもなかった」という時代に先祖がえりしたい、ということではないでしょうか。となると、「高度経済成長」という現在では現実的でない前提がどの程度必要条件なのかという問題はさておいても、結局のところは非正規雇用を「妻はパートで家計補助」に戻そうというバックラッシュの主張になってしまうでしょう。ちなみに「男女のどちらかが」というのが本気であれば、きわめて極端な政策ではありますが、独身正社員と独身フリーターのカップリングを政策的に奨励すれば赤木氏のいう「家族軸」の導入にはなります。ただ、この場合は、フリーターが家計補助パートになるだけで、フリーターの正社員化ではなく、フリーターの「正社員の配偶者」化にとどまるわけですが。

 もちろん、こうした考え方には国籍や男女などの差別の問題が強く表れることはわかっている。しかし、差別であるのは「経済の自由」を放置した場合も同じだ。差別の対象が違うだけのことだ。ならば経済や愛国心、そして家族など、さまざまな軸を複数巡らすことによって、誰もがどこかの軸で優遇され、別のどこかで差別されるようになれば、それは結果として平等に近い状態になるのではないだろうか。
 現在はまだ、不幸な若者の一部が犠牲になっているだけだ。しかし、「経済の自由」の軸だけで支配される世界は、いずれ現在正社員である人びとからも搾取するだろう。だからこそ複数の軸を確立し、「雇用形態を問わず労働に対しては生活できる収入が得られる」という、当然の社会原則を取り戻す必要があるのだ。

このあたりは例の「戦争」論と通じるところもあるのでしょうか。附属池田小事件のように「自分が幸福になれないのなら、みんな不幸になればいいのだ」という論法ですね。自分たちフリーターは「経済の自由」軸によって差別され、他の世代や同世代の正社員は優遇されている。この差別が解消されないなら、たとえば「愛国心」軸を導入すれば外国人を差別し、自分たち日本人が優遇されることができる。あるいは「家族軸」を導入すれば、女性を差別し、自分たち男性が優遇されることができる。ずいぶんひどい言い分だなあというのが率直なところですが、それはそれとして、まあこれで赤木氏の気はすむかもしれませんが、それで平等に近くなるからいいじゃないか、と言ったら、当然外国人の女性フリーターから「私たちはどうしてくれる」という声があがるでしょう。
さて、「「雇用形態を問わず労働に対しては生活できる収入が得られる」という、当然の社会原則を取り戻す必要がある」というのが赤木氏の結論のようです。これだけでは十分意を汲めないところはあるかと思いますが、たとえばこれが「1日4時間、週3回の店番で生活できる収入が得られる」ことが「当然の社会原則」だというのはさすがに無理があるでしょう。「フルタイム働いたら生活できる収入が得られる水準に最低賃金を設定すべきだ」という意見には賛否両論あり、やはり「当然の社会原則」とは申せないでしょう(赤木氏がそう考えるのは自由ですが)。
で、似て非なるものですが、「一人でも多くの国民が就労を通じて生活できる収入を得ることができるようにすることは政府の役割だ」という考え方は多くの国で採用されています。この特集の後のほうで紹介されているワークフェア政策は、その具体化のひとつといえるでしょう。もちろん、それでもどうしても就労が困難な人、就労しても十分な収入を得られない人はゼロにはならないでしょうから、そういう人には福祉政策によって生活を支援する。こうした政策パッケージを「当然の社会原則」に近いものとして認識している国はいくつもあり、おそらくはわが国もそうでしょう。
赤木氏が、たまたま生まれた時期が悪くてロスト・ジェネレーションに当たってしまった不運と、それに対する世間の無理解を嘆くことは、情においてまことにもっともなことだと思います。ただ、それは赤木氏の望むような「だから当然企業はフリーターを正社員採用しなければならない」といった議論の根拠にはなりません。もちろん、政策的努力は十分ではないかもしれませんが、だから「戦争が起きてみんな不幸になればいい」とか「人種差別や性差別を復活(?)させてもっと弱いものをいじめてやる」というような主張は、同じような不遇に苦しむ人の強い支持を集めるかもしれませんが、幅広い共感を得ることは難しいのではないかと思います。