日本が貧困大国?

このところ日経新聞は「格差を考える」という特集を連載していますが、今日は京大教授の橘木俊詔氏と阪大教授の大竹文雄氏のインタビュー記事が掲載されています。ふつう、このように並べて書くときは異なる見解を対比するのが普通でしょうし、今日の場合も橘木氏のほうは「日本は有数の貧困大国」、大竹氏のほうは「高齢化で見かけは拡大」となっています。とはいえ、内容をみると、見出しの違いほどには両者の差は際立っていないように思います。


まず、大竹氏のほうの見出しにある「高齢化で見かけは拡大」ということについては、橘木氏も一応認めてはいるようです。そのうえで橘木氏は「高齢者の間の格差は深刻」と主張しておられます。ただ、ドライな言い方で(現実には明日はわが身なのだからドライにばかり言ってはいられないのだが)申し訳ないのですが、これはどの程度をもって「深刻」というかという価値観の問題でもありましょう。いずれにしても、高齢者は「勝負のついてしまった」人たちであり、人生やり直すわけにはいかないわけですから、対応策としては(深刻だと思うのであれば)生活保護の水準を引き上げるとか要件を緩めるとか、さらに一般的には資産課税を強化する(高齢者は所得格差以上に資産格差が大きいと思われますので)とか、もっと一般的には所得課税の累進度を高めて再分配を強化するといったものになるのでしょう。
いっぽう、橘木氏の見出しにある「日本は有数の貧困大国」というのは、センセーショナルではありますがまことに実感にあわないものがあります(まあ、実感にあわないからこそ目をひくわけですが)。
もちろん、見出し自体は日経新聞の編集が勝手につけたものでしょうから、橘木氏には一切の責任はないはずです。日経がなにを根拠にこんな見出しをつけたかというと、記事中にはこんな記載があります。

「…国民の平均所得の半分以下しか所得がない人の割合である貧困率で、日本は経済協力開発機構OECD)加盟先進国のうち米国、アイルランドに次いで3番目の15.3%。貧困大国だ」
(平成18年2月10日付日本経済新聞朝刊から、以下同じ)

まず、OECDのいう「貧困率」というのは「等価可処分所得の中央値の半分以下しか所得のない人の割合」とされているはずで、この定義で日本の貧困率は15.3%とされています。「国民の平均所得の半分以下しか所得のない人の割合」というのは、「わかりやすく書いた」にしてもいささか不正確に過ぎる感があります。
さらに、この貧困率が高いことをもって「貧困大国」と呼ぶことには、いくつかの問題があります。
まず、そもそも等価可処分所得は国によって異なるのであり、その中央値の半分がすなわち一般的な意味での「貧困」とは限りません。米国や日本のようにもともとの等価可処分所得が高い国であれば、その中央値の半分であってもかなりの所得水準となっているはずです。逆に中央アフリカ諸国のようにそもそも等価可処分所得が低い国であれば、仮に貧困率がゼロ%であったとしても、国民の相当割合は一般的な意味では「貧困」の状態にあるでしょう。貧困率は国内の相対的な関係を示すものであって、国際比較上の「貧困」状態を示すものではありませんから、これが高いことをもって「貧困大国」と評価することはミスリーディングでしょう。
また、貧困率の算出にあたっては、たとえば「貯蓄を取り崩す」といったことが十分に反映されていない可能性がかなりあると思われます。日本の場合は厚生労働省の「国民生活基礎調査」が計算に使われているようですが、ここでは利子や配当などは資産所得として把握されますが、(主に高齢者が)資産を売却したり、貯蓄を取り崩したりしたりして生活費に充当した金額(おそらく「その他の所得」にしか入らないと思うのですが)が「所得」として十分把握されていない可能性は無視できないように思います。要するに貯蓄、資産の状況が十分反映されていないのではないか、ということです。
さらにいえば、家族による扶助も無視できません。一応「仕送り」は所得として把握されているようですが、「食事・家事の世話をする」などの金額的評価に現れない支援は計測されません。これは高齢者と同時に子どもについても発生するでしょう。
いずれにしても、常識的に考えて日本が世界のなかでは例外的に恵まれた豊かな国であることは否定しようがないはずで、「貧困大国」というのはいかにもおおげさな表現に思えます。
さて、それはそれとして、おふたりの意見は、「若年層の格差拡大が問題」ということと「セーフティネットは必要」という点では一致しています。私も同感ですし、大筋においてはほぼ社会的なコンセンサスではないでしょうか。
ただ、細かいことをいえば、たとえば橘木氏の

 今の企業には若者を訓練する余力がない。公共部門の職業訓練を手厚くし、勤労意欲を高めたところで企業が正社員として雇ったらいい。

という発言や、大竹氏の

 今の日本ではフリーターを十年もやると、好景気で企業が人手不足になっても正社員になるのは難しい。

という発言はちょっと違うのではないか、という感じはします。橘木氏の発言についていえば、公共部門の職業訓練を手厚くすることは結構なことですし、労働需要が高まってきた際に正社員採用されるにあたっては、正社員でない時期をどのように過ごしたかはかなり重要であり、職業訓練はそれなりに有意義な過ごし方であろうと思います(もっとも、アルバイトや派遣、有期雇用などであっても、週5日フルタイムで一定の長期間勤続するといった経験のほうがさらに有意義がことが多いだろうとも思いますが)。ただ、若者を訓練する余力がなかったのは(なかった時期が続いたことは傾向としては事実だと思います)ひとえに経済の低迷によって経営が困難であったという要因がおそらくは大きく、したがって経営が安定すれば若者を訓練する余力が回復することは十分に期待できます。企業に訓練余力がないから公共部門で…というのはかなり疑問があります(しかも、それで「勤労意欲を高める」というのですからなおさら)。
大竹氏の発言に関しては、「フリーター十年やると正社員になるのは難しい」というのは本当かな、という印象があります。まあ、たしかに容易ではないかもしれません。しかし、高卒フリーター10年なら28歳で、今現在をみても28歳のフリーターを正社員採用している企業はかなりあるのではないでしょうか(その過程では採用予定派遣やトライアル雇用、あるいは有期雇用契約による事実上のトライアル雇用などの利用が拡大しているように思われます)。必ずしも一律に「難しい」とはいえないものと思います。高卒10年で28歳、大卒10年で32歳か少し上、そのくらいの年齢なら(雇用情勢が改善している折でもあり)十分に正社員採用のチャンスはありそうに思えます。繰り返しになりますが、その十年間をどう過ごしたかは当面は重要になるでしょうが(もっとも、さらに人手不足になれば、それもたいして問われずに採用される機会もふえるでしょう)。
家庭環境によって「生まれつきの格差」が生まれかねないことへの懸念も、両先生に共通しているようです。橘木氏はこう言います。

「…実際、貧困家庭の子どもは十分な教育を受けられないことが多い。効率と公平を両方達成する政策はあり得る。北欧は福祉国家でありながら米英以上に経済は好調だ。国のあり方の選択を国民に問うべきだ」

北欧キター、という感じなのですが、もちろん国民に選択を問うのは結構だろうと思います。ただ、その際には、北欧諸国は経済が好調とはいってもコンビニもない、新幹線もプロ野球もディズニーランドもない(あるのかな。少なくとも日本のようにはない)のであって、そういうことも総合的に考慮して比較することが大切だろうと思います。
大竹先生のほうはといえば、

「…低成長・少子化時代で、親からの所得移転による差でスタートラインの差も大きくなっている。今までの再分配制度のままでいいのか、相続税を少し強化するとか、検討すればいい」

といたって控えめな主張にとどまっています(私も相続税の強化には賛成です。「少し」でなく、「相当に」強化していいと思います)。個人的な印象としては(根拠なし)、大竹先生は現状の日本の格差はやや行過ぎていて所得再分配での適切な対応が必要と考えられているのではないかという感じがするのですが、現実の発言はかなり慎重にされているようです。