日本学術会議-RIETIシンポジウム「ダイバーシティ経営とワーク・ライフ・バランス」(続)

さて長時間労働をめぐる議論の続きですが、リクルートの石原直子氏も「女性活躍の最大の阻害要因は長時間労働体質」と指摘され、労働時間を短縮してそれを個人が選択した多様な活動にあてることで個人も成長するし組織も多様化してイノベーションに結び付くというバラ色の絵を描かれているのですが本当にそうなのか
まあたしかに上司や周囲が残業していると早く帰りたくても帰れないという負の外部性があることは否定しませんし、それをなくすべく労使の努力が必要だとも思います(実際それでだいぶ減ってきたのではないかとも思います)。仕事以外の活動、石原氏は健康や学習や育児/家事や介護やボランティアや地域活動をあげておられましたが、これらが仕事とはまた違った個人の成長につながることも事実だろうと思います。単におつきあいで会社に残っているだけだと成長も能力向上もあまり期待できないというのもたぶんそうでしょう。とはいえきちんとした目的意識のある仕事はやはり成長や能力向上につながるのであり、おそらくは他の活動と較べてもその程度は大きいのではないかと思います。そのために仕事をしたいという人を無理に止めるというのも考えものでしょう。実際問題としても仕事を早く切り上げてその分の時間を有意義な活動に使いなさいと言われても私のような凡人にはなかなかそうはできないわけで、小人閑居して不善を為すと言いますが大石先生ご提示の資料から思うにたぶん日本人には睡眠時間にあててしまう人が多いのではないかと(笑)。そういう意味でも仕事というのは意志の弱い平凡な人が能力を高めるには有効だろうと思います。
また、労働時間削減が組織の多様性を通じてイノベーションにつながるという話についても、おそらくは多様性のある組織のほうが画一的な組織に較べて創造的な成果を生みやすいだろうという点については私も同意見ですが、いっぽうでイノベーションは集中や没頭なくして生まれないというのもたぶん事実だろうと思うわけで、過去のイノベーションの事例をみても、やはりある時期には寝食を忘れて没頭した人たちがブレークスルーを生んできたわけです。
まあこのあたりは石原氏も「長時間労働体質」(強調引用者)と言われていたので、長時間労働をすべて一律に否定しているわけではないのだろうと思います。なお石原氏のご所論の中で非常に重要だと思ったのは単に女性が早く帰れるだけでは不十分だというご指摘で、これはダイバーシティだけではなくダイバーシティアンド・インクルージョンでなければならないということでしょう。長時間労働「体質」を作っている人たちに「長時間働くのでなければ能力があってもハイレベルな仕事・ポジションは与えられない」という意識があるならそれは変えなければならないということには私も大いに賛同するところです。
これに関連して、樋口先生から「そうは言っても企業にとって必要な長時間労働に対応した人はしかるべく高く評価されるのが公平だという考え方もあるようだが」との問題提起があり、これに対しては21世紀職業財団会長の岩田喜美枝氏が「人数あたりではなく時間当たりの成果で評価すべき」と主張されました。長時間働いた人は割増賃金を受け取っているのだから割増率分を割り引いて評価すべきだし、逆に短時間労働の人は賃金も少ないのだからその分は上乗せして評価すべきだというわけです。
これもたいへんにごもっともではあるのですがやはり現実には難しいところがあるなあとも思ったところで、上でも書いたようにイノベーションを生むには多くの場合それなりに長時間の集中と没頭が必要になると思われるわけですが、それが大きな成果を出した場合は格別、いいところまで行ったんだけど結局ダメでしたとか他社に先を越されましたとかいうこともまあザラにあるわけです。そういう場合に長時間労働したんだから評価はその分割引ね、ということで本当にいいのかどうか。画期的なイノベーションにつながるようなプロジェクトというのは往々にしてハイリスクなわけであり、まあ感覚的には10個のプロジェクトが走っていたらそのうち1つか2つモノになれば御の字(数字に特段の意味はありません)という感じではないかと思います。長時間労働だから評価は割引、という発想では、こうしたプロジェクトに技術者が安心して取り組むことができず、結果的にイノベーションを阻害するのではないかと思うのですがどうなんでしょうか。
ということで、非常に内容も豊富で議論も活発な有益なシンポジウムだったのですが、一方でいつもながらキャリア形成との関連性から勤労観、価値観の転換といったところまで踏み込めないままに終わったという感は強く残りました。
なにかというといつも書いていることですが、前半も含めて登壇者のみなさまが参照される諸外国においても高いキャリアをめざすエリート層の人々はたいへんなワーカホリックでありワークライフバランスにコンフリクトを抱えているわけです。日本の場合に特徴的なのはその範囲が非常に広いことで、まあ総合職の正社員であれば誰でも高いキャリアを目指し得るという世の中になっていますし、中卒でも工場長になれる「青空の見える人事管理」をよしとしてきた歴史があるわけです。その背後には(どちらがニワトリでどちらがタマゴかはわかりませんが)たとえば「努力した人が報われることが正義だ」「誰もがいつまでもチャレンジでき、努力次第で栄達できる社会であるべきだ」といったような価値観があるのだろうと思います。正直なところ私自身はこういう「非凡な人が8時間働くなら平凡な私は倍の16時間働いて上回ってみせる」という考え方は(往々にして福祉を必要とする人に対して「努力不足!自己責任!」という議論になりがちでもあり)なんか息苦しくて好きではないのですが、しかしそれが大勢だというのであればまあ仕方ねえなと苦笑いするよりないわけで。
ただまあ高度成長期であれば経済も企業組織も拡大していて幹部ポストも潤沢にあり、それなりに頑張ればそれなりの仕事やポジションで報われたわけですが、昨今のような低成長下では幹部ポストもいい仕事も稀少なので、頑張っても報われない、あるいは報われるには相当の頑張りが必要な状況になってしまっています。そこの競争が激しいことが、転勤や長時間労働が当然のこととして行われる理由の一つになっているのではないかと思います(そしてもう一つの大きな理由が雇用の安定でしょう)。
したがって、転勤をやめる、長時間労働をやめるには、従来の価値観から「ごく限られた一部のエリート以外は、ほどほどに努力してほどほどのキャリアや生活に甘んじることが正しい」という価値観に転換する必要があるということになりそうです。hamachan先生が繰り返し主張されている「ワークライフバランスをデフォルトルールに」というのもまさにそういう意味だろうと思います。逆に言えば、選ばれた少数のエリートは思う存分仕事に集中し没頭しイノベーションを生み出していく、ということになるのでしょう。元リクルート海老原嗣生氏が指摘するように「全員エリートはもはや無理」であり、限定正社員というのもそこから出てくるアイデアという面もあるのでしょう(このあたり実は同一労働同一賃金の話にも深くかかわってくるのですがここではパス)。
そこで問題はどうやってそのエリートを選ぶのかという話であり、まあ欧米で一般的なのは学歴(とその背後にある社会階層)ということになるでしょうか。大石先生が推しておられたフランスの場合だと、いまウラ取りはしていませんのでうろ覚えで間違いがあるかもしれませんが、まあ10歳前後、遅くとも10代前半には高卒で就職する人とさらに進学する人との振り分けが行われ、10代後半には大卒で就職する人とプレパラトワールからグランゼコールに進むスーパーエリートとに振り分けられ、20代前半には大卒でエリート(カードルやエンジニア)になる人とそうでない人が振り分けられてそこでおおむね人生決まりますというのが現実ではなかったかと思います(高卒の工員・職員からカードル試験やエンジニア試験に合格する人も少数ながらいるそうですが)。しかも賃金は一応年功的に上昇はするものの上のクラスの初任給を上回ることはまずないということらしく、かなり徹底した学歴社会(そして結局は裕福でなければなかなか進学もできないしエリートにもなれない階級社会)になっているわけですが、いずれにしてもそうやって高学歴を勝ち得た人がエリートとなることが正しいという価値観の国だということでしょう(もちろんそれがよくないと感じている人もたくさんいるからピケティみたいな人が出てくるわけでしょうが)。アメリカもフランスほどではないにしてもやはり学歴社会であり、一定レベル以上のポジションは大卒でないと就けない、MBAホルダでなければ高級幹部になれない、どんなに優秀で有能でもそのレベルに昇進したいならまず大学に行って学位を取ってこい、というのがまあ普通であり(もちろん例外も多々あるでしょうが)、さらに同じMBAホルダの中でもアイビーリーグの有名校出身者と無名校出身者とではポジションも賃金も大差というのもよく知られた話ではないかと思います。
このシンポジウムでもそうでしたが、昨日のエントリの最初にも書いたようにこの手の議論を聞いていつも閉塞感を覚えるのは結局は「エリートをどうやって選抜するのか」についての解がないからであり、まあこういう場で登壇される方々はご自分は疑いなく稀少なエリートだと思っておられるでしょうから(違うというつもりはないしそれが悪いというつもりもない)あまり関心を持たれないのかもしれませんが、多くの人にとっては自分はエリートに入れるのかそうでないのか、あいつはエリートで俺はノンエリートなのはなぜなんだ、ということが重大な関心事項なのであり、そこに解のない議論はどこまで行っても多数の共感は得られないのではないかと思います。
とエラそうなことを書くわけですがもちろん私にも確信があるわけではなく、ただこういった早い段階で残りの人生が決まってしまうような学歴社会、階級社会というのはなかなか日本では受け入れられないだろうとは思います。そこで前述の海老原嗣生氏が提案されたのが「新卒就職後10年くらいかけてエリートを選抜」という案ですが、これも残念ながらうまくいきそうにないというのは以前書きました(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20151020)。現在の日本企業の「段階的に・必ずしも明示的でなく・個別に(基本的にこれ以上の昇進は見込みにくい)"引き込み線"に入れていく」という人事管理は確かにいろいろと問題も課題もあるでしょうし、すばらしくうまく行っているとはおよそ言えないのでしょうが、それでも労使が苦労して作り上げてきたものであり、それなりに日本人の価値観にも合致したものにはなっているのではないかと思います。
ただまあ私としてはもう少し明示的にファストトラックとスローキャリアを分けることはできるのではないかとは思っており、スローキャリアの限定正社員には一定のニーズもあるのではないかと思っています。たとえば(1)新卒就職時にファストトラックとスローキャリアの2コースを設ける、(2)ファストはエグゼンプト、スローは限定正社員でワークライフバランスに最大限配慮、(3)キャリアの到達点はファストは経営トップから課長クラスまで幅広く差がつき、スローは部次長クラスから係長クラスまでの比較的狭いレンジに収まる、(4)したがって賃金水準はファストとスローで大いに重なりあう、(5)ファストからスローへの転換は本人希望で可能、逆は企業が選抜、といった感じのコース別人事制度は考えられるのではないかと思っています。ここで最重要なのは言うまでもなくスローキャリアが女性に固定されないことで細心の注意が必要だろうとは思いますが、しかしかつての補助的な事務一般職とは異なり、最終的にマネージャークラスまでの昇進が想定されたスローキャリアであれば男性でもこれを選択する人はそれなりにいるのではないかと思うのですがそうでもないでしょうか。
それがそうでもなくて、いかに狭き門であっても全員エリートがいいのだ、というのが国民の選択だということであれば、あとはまあ男性の専業主夫を普及させるということでしょうか。こちらも価値観の問題ではありますが、男たるものなんたらかんたらとかいう時代遅れの発想を捨てればいいだけの話であって正義がヘチマとか社会のあるべき姿が滑った転んだとかいう話ではないので転換は難しくない、というか転換ははかられているはずなのですが、これこそ昨日も少し書いたような本音と建前の錯綜するところなので、まあ容易ではないとしたものかもしれません。
ということで結局はまたいつもの話の繰り返しになってしまらなく終わるわけですが、最後にひとこと苦情を申し述べさせていただくと、議論の中で企業のマネージャーや人事担当者は人事評価ができないもんだからデジタルな残業時間で評価しているとか、転勤の意味や必要性を説明できないくせに前例どおりに転勤させているとか、上から目線でマネージャーや人事担当者をバカ扱いする発言が散見されて(転勤の話はひょっとしたら陰謀論?いやまさかね)、まあ私もうマネージャーでも人事担当者でもないのでそれで心が深く傷つくこともなかったのですが(笑)、しかしまあ後輩には気の毒だと思った。いやまあそれはそのとおりだった(はい過去形ね)かもしれませんし、そもそも当日その場に企業の人はあまりいなかったみたいなので別に気にするほどのことでもないのかもしれませんが。