hamachan先生への異論

数日前にhamachan先生から頂戴したご著書『日本の雇用と中高年』をご紹介した際、一部に誤解があるのではないかとコメントしました。まだ議論に耐えるだけの検証はできていないのではありますが、ご関心の向きも多いようですので、疑問点をざっくりと書いておきたいと思います。
まず知的熟練論の評価についてはpp.82-86あたりで論じており、小池和男(1994)『日本の雇用システム−その普遍性と強み』から「職務給を評価できない理由を述べた部分」を引用され、続けてこのように述べられています。

…実際…ジョブローテーションでいろんな仕事を一つ一つ覚えていく途上にある若年期においては、このロジックが当てはまる…問題は、…中高年期に至っても、このロジックがそのまま適用できるのか、…本音でそう思っているのか、それとも建前論に過ぎないのか。それは、現実の企業行動によってしか知ることはできません。好況期にはそのロジックを信じている振りをしている企業であっても、いざ不況期になれば、「変化や以上に対処する知的熟練という面倒な技能を身につけ」たはずの中高年労働者が真っ先にリストラの矛先になるという事実が、その本音を雄弁に物語っているように思われます。
濱口桂一郎(2014)『日本の雇用と中高年』p.84)

hamachan先生は同書の別の個所(pp.171-174)でも再度同旨の議論を展開し「リストラ時の企業行動は、中高年の「知的熟練」を幻想だと考えていることを明白に示している(pp.173-174)」と断罪されています。
しかし、私は経験的にはやはり知的熟練はわが国企業、特に製造業の現業部門における競争力を支えるものであり、長期雇用・内部育成で多分に各企業独自の技術やノウハウを蓄積していく人材戦略が強みだと思っています(もちろん業種・業態・職種による違いは大きいだろうと思います)ので、そうした立場からみると、こうした企業の行動はむしろ知的熟練論と相当程度整合的であると思えます。
まず、少し長くなりますが知的熟練とその形成について、小池和男(2001)『もの造りの技能−自動車産業の職場で』の要約をご紹介したいと思います

…自動車工場の最終組立職場は、コンベヤに載って次々に流れてくる作りかけの自動車に、60秒から120秒くらいを1サイクルとして、15〜30くらいの部品を組み付ける、反復繰り返し作業である。サイクルが60秒であれば8時間の仕事での繰り返し回数は単純計算で500回近い。そこには仕事に対する「慣れ」はあっても、「熟練」などは皆無に見える。世間では自動車組立は単に体を酷使すれば足り、いかに酷使するかが生産性を決定すると考えられている。しかし、これは実際には熟練の入口(レベル1)に過ぎない。
 現実に効率に貢献するのは、品質不良や設備故障、あるいは生産量の変動による作業内容や手順の変更、さらには、新商品への生産の切り替えといったものに、いかに効率的に対処できるかであるという。実際、品質不良が見出されずに完成品となり、最終検査で不具合が見つかった場合、その修理のためには、かなりの程度まで分解し、多くの時間をかけなければならないだろう。もし、これを生産の途中で発見できる程度の技能(レベル2)の持ち主がいれば、発見した時点で修理することで、その手間ははるかに少なくてすむ。さらにすすんだ技能としては、設備トラブルの復旧がある。もちろん、組立工にすべての故障を直すことを求めることはむずかしい。しかし、いくつかのトラブルを復旧できるだけでも、効率への貢献は大きい(レベル3)。組立ラインではひとつのコンベヤ上で100人近い作業者が働いていることもまれではない。設備故障で作業ができず、コンベヤが止まれば、その全員がアイドル状態になる。このロスは確かに大きいだろう。さらに高度な技能になると、トラブルの原因を推理し、解決することができるという。このレベル(レベル4)になると、新しい生産設備の設計を見て、現場における問題点を予想できるという。まさにブルーカラーのホワイトカラー化である。もちろん、レベルが上がるにしたがって、できる作業もふえていくから、作業内容や手順の変更に対する柔軟性も向上していくことになる。
 レベル3以上の高度な技能を持つ作業者は、全体の6割は必要であるとされる。これを下回ると効率は大幅に落ちる。次に、レベル3に達するには10年程度以上の経験を要する。技能はすぐれて企業特殊的であり、その修得のほとんどはOJTに頼らざるを得ない。そして、高度技術が導入されるほど、知的推理を要求する技能が必要となり、技能の高度化が要請される。すなわち、その育成にはさらに長期が必要となり、off-JTの適切な組み合わせが求められる。
 その含意として、まず、育成途上の人まで考慮すると、全体の4分の3は長期雇用であることが重要である。ベテランから仕事を習う機会をなるべく多く確保することが必要である。さらに、職場における一人ひとりのくふうを促すしくみが必要であり、何より向上した技能を正しく評価し、それに応じて報酬を支払うことが肝要である。したがって仕事給、職務給はまったくふさわしくない。同じ仕事をしていても、その仕事しかできない人と、前後の多くの仕事ができる人とでは、効率への貢献に大差がある。仕事給ではこれに適当に支払うことはできない。レベル1からレベル4までを職能資格とした、幅広な職能給制度が推奨される。資格の中にレンジを持たせ、上限と下限を決めて、資格が上がらなければ上限を超えないが、しかし上位資格の下限と下位資格の上限は大いに重なりあうのがよいとされる。資格が上がらないまでも、経験は拡大するからである。評価は数量によることはできず、仕事を良く知っている熟練工、すなわち上司の評価によるしかない。そして、作業者にとって最大の財産は技能であり、労働組合も技能形成や人材開発に積極的に発言、参与することが望ましいという。

上記をみても明らかなように要員管理的には知的熟練もポートフォリオであり、上記の例においては全体の6割はレベル3以上とのみ書かれていますが、たとえば全体の8割はレベル2以上(だとするとレベル1は2割未満)とか、レベル4(またはそれ以上)はたとえば1割以上とか、適切な組み合わせがあるわけです。

  • 以下、この例を用いて説明しますが、おそらく実情はこれほど単純ではなく、当然ながら個別企業により実態は多様と思われます。

もちろん技能面では大は小を兼ねるわけでしょうが、必要以上に技能の高い人が多くなるとコスト的な問題が出てくることは明らかです。ということで、その適切な組み合わせ(相当に幅はありましょうが)を長期継続的に実現していく(ここが重要)ことが人事管理の課題となるわけです。
したがって今はもちろん10年後(なり何年後なり)にも適切なポートフォリオを維持したいと考えるのであれば、今はそれほど高技能でなくとも10年後にレベル4なりレベル3なりに到達するであろう中堅・若手を確保しておくという観点も重要になってくるわけです。
また、やはり当然ながら全員がレベル4に到達するわけではなく、相当割合の人たちはレベル3でとどまり、あるいは少数の人たちはレベル3に到達しないということもあるでしょう。要するに、一口に中高年といってもレベル4の人もいればレベル2の人もいるだろうということです。
さて、こうした中で、やむを得ず余剰人員の整理を迫られたときに、「「変化や以上に対処する知的熟練という面倒な技能を身につけ」たはずの中高年労働者が真っ先にリストラの矛先になる」ことをもって、企業が「中高年の「知的熟練」を幻想だと考えていることを明白に示している」と言えるかどうかは、はなはだ疑わしいと思われます。
つまり、中高年がリストラされると言っても全員がリストラされるわけではなく、レベル4のような人は退職しようとしても企業は引き止めるかもしれませんし、いっぽうでレベル2にとどまっている人(hamachan先生ご指摘のとおり賃金制度が年功的に運営されている場合に割高になってしまうことが多い)には「リストラの矛先」が向かうであろうことも容易に想像できます。レベル3の人であっても、レベル3の割合が適切な水準を超えているとしたら、やはり「リストラの矛先」が向かいやすいであろうことも見やすい理屈です。
また、中高年が若年に較べてリストラされやすいのは、上記のような端的に賃金が高いからという事情もさることながら、若年は将来的にレベル3、レベル4の技能を蓄積して次代の担い手として成長してほしいとの中長期的な要請による部分も大きいでしょう。
hamachan先生は、中高年のリストラは若年の知的熟練形成への意欲を低下させるという小池先生の指摘も紹介されており、たしかにその懸念はあると思います。ただ、それはあくまで非常時の話であり、リストラの順番も正社員は最後であり、かつ有益な技能があるほどにリストラされにくいという現実もあるわけですから、まあ致し方のないところではないかと思います。
ということで、hamachan先生の「現実の企業行動」は、企業にとっては知的熟練論は建前でもなければ幻想でもなく、本音として知的熟練に価値を認め、それを適切に形成し、保有活用し続けたいと考えていることとなんら矛盾するものではないというのが私の意見です。

  • ただし、hamachan先生は「「変化や以上に対処する知的熟練という面倒な技能を身につけ」たはずの中高年労働者が真っ先にリストラ」と書いておられますので、あるいは「知的熟練を身につけたはずで、そのように処遇もされているけれど、実は身につけていない人」が真っ先にリストラされるのだ、と書かれているのかもしれません。後段も同様、「中高年の「知的熟練」を幻想だと考えている」と、知的熟練にカギ括弧がついていますので、これはカギ括弧なしの知的熟練ではなく、身につけたかのように処遇されているものの実は身についていない「知的熟練」のことだ、ということかもしれません(であれば”幻想”という用語とも平仄が合います)。ということであれば、これは知的熟練論の実質的な重要性をサポートしているわけですので、いずれにしても私の結論は変わりません。

なお、賃金制度に関しては、hamachan先生も繰り返し指摘されているとおり、この「何より向上した技能を正しく評価し、それに応じて報酬を支払うことが肝要」というのが難しいわけで、職能給制度のもとでは往々にして「技能が向上しているはずだから」と言って年功的な運用になりがちな点は確かに問題だろうと思いますし、それが上記中高年へのリストラ圧力を招いているというのもそのとおりだろうと思います。もちろん、現実には人それぞれ、技能も賃金も上昇を続ける人もいますが、多くは俗に「引き込み線に入る」と言われるように、いずれも頭打ちになって上がらなくなるといった形でこの問題に対処しようとしている企業も多いわけですが、必ずしも十分とはいえないでしょう。
これは人事管理的には技能のレベルに対してどの程度処遇に差をつけるかという問題であり、「能力はともかく、がんばって努力しているのだから」とか「そうは言っても生計費というものもあるよね」とかいった考え方も織り込みながら労使で結論を出してきた話です。能力が伸びないのは当人の限界や努力不足によるものかもしれませんが、能力が伸びる仕事を担当できるかどうかにも依存しているわけで、いわばそうした運不運に対する互助的な保険機能として、労使であまり差がつかない運用をしてきたという面もあると思います。
ですから、それが中高年の雇用の安定にもつながるからということで、途中からは(最初からでもいいと思いますが)hamachan先生の言われるジョブ型、職務給の働き方を可能として拡大していこうということに労使で合意できるのなら、それは実現していけばいい話ですし、それが望ましい方向だと私も思います。ただ、それは知的熟練の重要性に影響を与える話でもなく、知的熟練を内部蓄積するという企業の人材戦略が大きく変化することもなかろうとも思うわけです。
なお余談にわたりますが、hamachan先生は小池先生の『仕事の経済学』から「アメリカの雇用調整制度の方がすぐれている」「高年者の技能を浪費する日本の雇用慣行」といった記述を引用されていてそんなこと書いてあったかなあと思ったのですが、hamachan先生も明記されているように1991年の『仕事の経済学』にはそのような記載がありました。これに限らず、本書における小池先生の所論の引用はほとんどが1991年の『仕事の経済学』と1994年の『日本の雇用システム−その普遍性と強み』からのものです。それはこの時期の時代背景で議論しているわけですからそれでいいわけですが、その一方で、1999年の『仕事の経済学第2版』ではこうした論調はかなりトーンダウンし、2005年の『仕事の経済学第3版』ではほぼ姿を消していることは事実として書いておきたいと思います(なお全部をあらためて仔細に読み返したわけではないので、現に書いてあると示されれば尻尾を巻く準備はあります)。
さて知的熟練の話がたいへん長くなってしまいましたが、もう一点、前回2007年のホワイトカラー・エグゼンプションに関しては、hamachan先生はこう書かれています。

…これまでであれば管理職クラスのスタッフ職として処遇するという形で対応してきた人々が、必ずしもそうではなく、管理職の一歩手前にとどまってしまうという事態が進んできた…ホワイトカラー・エグゼンプションの議論が1990年代から急速に盛り上がっていった背景にあるのは、実のところ企業のこうした人事管理の変化なのです。
(濱口著前掲書、p.187)

私もこれに関してはハジッコの方であれこれ議論に加わったわけですが、その時の記憶からはそうだったかなあという感じがします。「週刊東洋経済」の2007年1月13日号に、当時研究会の座長や労政審の公益委員を務められた荒木尚志先生のインタビュー記事があり、このように語られています(ちなみにこの特集記事ではザ・アール奥谷禮子さんの飛ばしたインタビューも掲載されていた話題になりました。http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20070116)。

 労働時間や割増賃金の新たな適用除外枠をつくるかのように受け取られがちだが、私はむしろ、従来からの宿題に一つの答えを出した、と思っています。これまで「管理監督者の一歩手前」の人たちの法制が整理されないまま、裁量労働制が少しずつ拡大してきていた。現状を放置すると、使用者は、本人の合意も年収要件もいらない、手続き不要の管理監督者扱いにして、労働時間や割増賃金の規制を外す方向へ行きがちです。そこできちんと要件をチェックする枠組みを用意し、該当者には休日はきちんと確保し、本人にも同意を取る、という制度です。…
週刊東洋経済2007年1月13日号、p.45)

最初にも書いたとおりしっかり検証はしていないので記憶だよりなのですが、こういう話じゃなかったかなあと思います。「管理監督者の一歩手前」の管理監督者労基法がもともと想定していた管理監督者で、したがって「管理監督者の一歩手前」というのは相当程度はスタッフ管理職のことを指していて、もちろん大企業の係長クラスなども想定されていたとは思いますが、主には「現状を放置すると、使用者は、本人の合意も年収要件もいらない、手続き不要の管理監督者扱いにして、労働時間や割増賃金の規制を外す方向へ行きがち」という実態をふまえて、保護に欠けないような制度を作ろうとしていたのではないかと記憶します。ちょうど日本マクドナルド事件が提訴されて話題になっていたという時代背景ではなかったかと思います。もちろん、出来上がった案は前述のように大企業の係長クラスの一部(どの程度は年収要件の水準に依存)への適用も念頭に置かれていたと思いますので誤りではないと思いますが、しかし企業が管理職クラスへの昇格を絞ったことが大きい契機だったということはないように思われます。