「研究進む「幸福の経済学」」大竹文雄大阪大学教授

どうもはなはだしく世間の動きに遅れているようですが、まずは大型連休中の5月3日に掲載された大竹文雄先生の論考です。「所得が高いと幸せ? 客観・主観両面から測定を」という見出しもついています。

…政府が昨年12月に発表した「新成長戦略(基本方針)」では…数値としての経済成長率や量的拡大のみを追い求める従来型の成長戦略とは一線を画すという。…国民の「幸福度」を表す新たな指標を開発し、その向上を目指すというのだ。…主観的な幸福度を経済政策の目標とすることに戸惑う人も多いのではないか。実際、「高成長率を実現できない場合の言い訳に使うのでは」との批判が政府内部にもあったそうだ。
 4月27日に内閣府が発表した調査結果では、日本人の幸福度は10段階評価の6.5点と、英国やデンマークより低い*1。幸福への法則を見つけ政策にいかすのは可能なのか。
…フランスのサルコジ政権は、2008年にスティグリッツコロンビア大学教授ら著名なノーベル経済学賞受賞者を集めた「幸福度測定に関する委員会」を発足させ、09年9月に報告書(スティグリッツ報告)を発表した。…幸福度については、健康、教育、個人活動、環境などの指標やそれらの指標の不平等度といった客観的な条件にも依存すると指摘。そして、幸福度の計測には、客観的指標と同様に満足度や幸福度に関する主観的指標も有効だとの見方を示した。…幸福度というあいまいな指標が、経済政策の成果を測る指標として有効であるという点で、有力経済学者の間でも意見が一致しているのである。
…人々の幸福は、物質的な豊かさと完全には対応していないとしても、ある程度相関があると多くの経済学者は考えていた。実際、飢餓状態にある人々より所得が高い人の方が幸福だと考えるのは自然だ。
 では、飢餓状態を超えた場合、客観的な所得と主観的な幸福度との相関はあるだろうか。所得、失業、年齢、性といった人々の客観的な属性と幸福度との間…の関係が大規模な統計データを使って研究されるようになった。その結果現在では、幸福度と様々な客観的な指標との間に相関があることが分かってきた。…日本でも幸福感は所得に加えて様々な客観的な指標である程度説明できることが示されている。
…日本の幸福度の長期統計を見ると、所得水準が長期的に上昇しているにもかかわらず、日本人の平均的な幸福度が上昇していないことが知られている*2。…時系列データで、主観的な幸福度と所得の間に正の相関が見いだせないのは、欧米でも同じである。また、幸福度と所得の間の国際比較をしても、両者の間にあまり相関がない。
 所得と幸福度の指標に差があるのでは、所得が経済厚生の指標として使えないか、幸福度が信頼できない指標なのか、ということになってしまう。そこでこの逆説を解くため様々な仮説が提唱された。
 最も有力なのは、相対所得仮説だ。人々の幸福は、自らの所得に加え比較対象とする人の所得との相対的な大きさにも依存するとの考え方だ。…自分の所得だけが上がれば、幸福度は上昇する。だが比較対象グループの所得も自分の所得と同じだけ上昇すれば、自分の幸福度は変化しないことになる。つまり経済成長で平均的な所得水準が上昇すると、人々の幸福度は上昇しない…それと整合的な実証結果も得られているという。
 最近の研究…の結果、確かに、人々の幸福度は相対所得の影響を受けるが、自分の絶対的な所得水準の影響も受けるため、すべての人の所得が増加した場合にも幸福度が上昇する…つまり相対的所得仮説は、…逆説の一部は説明するが、それだけでは説明できないということだ。
 もう一つの仮説は順応仮説と呼ばれるものだ。人々が環境変化に慣れてしまい、幸福や不幸をもたらす環境の変化があったとしても、その影響はしばらくすると消えてしまうというのである。実際、幸福度を毎日計測した…研究では、幸福に影響する事象による幸福度の変化は4日程度しか持続しないことが明らかになった。
 逆説そのものに疑問を提示する研究もある。…幸福度の国際比較の対象となる国を増やすと幸福度と所得の間に正の相関が見られること、日本や欧州の幸福度調査の質問文の変更や質問の順番の変更の影響を考慮すれば、幸福度と所得の間の時系列的な正の相関が見られる…。
…経済政策で目標とする指標として所得のみを使うことは正しくない。しかしながら、主観的な幸福度のような指標ですべて代替できるかといえば、そうでもない…私たちは客観的指標と主観的幸福度指標の双方をうまく活用していくことが重要である。
(平成22年5月3日付日本経済新聞朝刊「経済教室」から、以下同じ)
http://www.nikkei.com/paper/article/g=96959996889DE2E4E4EAE7EAE4E2E2E3E2E7E0E2E3E29997EAE2E2E2;b=20100503

「幸福の経済学」のきわめてわかりやすく要領のよい紹介で、この分野でも大竹先生ご自身や大阪大学が大きな貢献をしておられます(抜粋で消えてしまっているのが申し訳ないのですが)。「客観的指標と主観的幸福度指標の双方をうまく活用していくことが重要」との結論もまことに同感です。
ここからは私の感想ですが、所得というのはハーズバーグのいう「衛生要因*3」に似ているのではないかと感じました。賃金は代表的な衛星要因で、上がっても意欲は高まらない一方で、下がると意欲が下がる(しかもかなり大幅に)ということはよく実証されていますし、実務実感ともよく一致するものです。それとの類推で、「所得水準が長期的に上昇しているにもかかわらず、日本人の平均的な幸福度が上昇していない」一方で、仮に所得水準が長期的に下降したとしたら、おそらく幸福度も下降するのではないか…と思うからです*4。もし、所得水準がわずかでも上がることが当然視されているとしたら、所得が下がらなくても、上がらないだけで幸福度が下がる…ということもありうるかもしれません。まあ推測ですが。
だとしたら、所得の上昇はそれが幸福度の上昇には直接つながらないとしても、低下を招かないという面では幸福度を上昇させる上でやはり重要であるということになると思います。
また、日本でも海外でも、所得階級別に幸福度を測定するとある水準までは所得が多いほど幸福度が高いという傾向がみられるわけで、マクロでみてもある程度より所得水準の低い国では、時系列で所得が上昇すれば国民の幸福度も上昇するという関係はみられるのではないでしょうか。「国際比較の対象となる国を増やすと幸福度と所得の間に正の相関が見られる」というのも、増える国は比較的所得水準の低い国が多いのではないか…とこれはまったくの想像ですが。調査の可能性を考えると案外所得水準の高いヨーロッパの小国とかが増えているのかもしれませんし。
さて、ここからは本文とは無関係になりますが、日本人の幸福度は10段階評価の6.5点と、英国やデンマークより低くなっていることは確かですが、しかし10段階評価で「8」と答えた人が最も多い(20.1%)という点では、実は英国やデンマークと共通しています。日本が特徴的なのは「5」と答えた人が19.4%と同じくらい多く、これが平均点を引き下げています(ちなみに「7」も19.2%と多く、残りは一桁%にとどまっています*5)。これまたまったくの想像の域を出ないのですが、英国やデンマークでは「人並み程度かそれ以上」であれば大多数の人が幸福度「8」と回答するのに対し、日本では「人並み程度」を幸福度「5」つまり「人並み=普通=5」と考えて回答する人が相当数いるということではないでしょうか。平成21年度国民生活選好度調査結果で示されている欧州の他の2か国も実は日本と似た傾向にあり、ハンガリーは日本と同様に「幸福」と「普通」の2極、ウクライナは「幸福」「普通」「不幸」の3極になっています*6。つまり、こうした調査はその社会で一般的な思考パターンの影響をかなり受けているのではないかと思われ、だとすると思考パターンを変えずに日本の幸福度(幸福感)を英国やデンマーク以上にするには相当の努力が必要ということになるでしょう。
ただ、思考パターンは変えられないかというと、ある程度時間をかければ変えられるわけで、たとえば人並みってのは幸福なんだ、10段階で評価したら8なんだ、という教育を幼児期から徹底すれば可能かもしれません(幼児期から徹底するにはすでに社会全体がそうでないと難しいという問題はありますが)。まあ、そういうダイレクトな教育は無理としても、その方向に誘導するような教育を行うことは可能でしょう。極端な話、自爆テロに突っ込む若者は不幸かといえば、本人はたぶん幸福だと思っているわけで、そういうことも不可能ではないわけです。そういうマインドコントロールはまことにおぞましい限りですが、たとえば幸福度発祥の地であり、かつ幸福度の高い国として知られるブータン王国はどうなのか。もちろん所得は格別高くない(日本と比較すればかなり低い)わけですが、たとえば(私の勝手な例示であってブータンがそうだといいたいわけではありません)「この国で豊かな自然に囲まれて心静かに質素・敬虔な人生を送ることは幸福だ」という社会的なコンセンサスがあれば、それで幸福度は高くなります。こうしたものをどう評価するかは諸説ありそうで簡単ではないでしょう。英国やデンマークの他にも欧州で幸福度が高いとされている国、北欧やベネルクス三国をみると、いずれも君主制であって王室への関心・敬意が高いという共通点があり、これも偶然なのかどうか。それに象徴されるような社会の雰囲気、そのもとで行われる教育が幸福感の高さに影響していないといえるのかどうか。私にはたいへん興味深く思えます。ひょっとしたら、わが国でも天皇陛下万歳の時代のほうが現在より幸福度が高かったりするかもしれません…と、これは悪い冗談でした。
もうひとつ、ついでに昨年度(平成20年度)の国民生活選好度調査の結果概要*7を読んだところなかなか面白い結果が出てましたので書いておきます。
まず「1人当たり実質GDPは上昇しているものの、生活満足度は横ばい」という、経済教室での紹介と同傾向の結果が紹介されます。それに続けて「世の中は次第に暮らしよい方向に向かっているかについてたずねたところ、『暮らしよい方向に向かっていると思う』(「全くそうである」+「どちらかといえばそうである」)と回答した人の割合は、2005 年の20.6%から、2008 年には10.2%と10.4%ポイント低下し、割合が半減している」という結果が紹介されます。ただ、1978年から3年毎の長期時系列データが示されていますのでそれを見ると、直近のピークは1990年の45.7%で、2002年の14.7%まで一貫して低下し、2005年に20.6%に持ち直したものの、2008年にはまた10.2%と低下しています。したがって、2005年から半減、という表現はややミスリーディングでしょう。もっとも、1990年以降でみれば大幅に低下しているわけではありますが。
で、調査結果概要はそれに続けて「老後の見通し」に関する調査結果を「自分の老後に明るい見通しを持っているかについてたずねたところ、『自分の老後に明るい見通しを持っている』…と回答した人の割合は11.8%となっており、2005 年の14.4%から2.6%ポイントの低下と依然減少傾向にある」と紹介しています。これまた長期時系列があり、こちらは直近のピークは1984年の35.8%で、一貫して低下しています。
ということで、直接そうは書いていないものの、「1人当たり実質GDPは上昇しているものの、生活満足度は横ばい」で上昇しないのは、先行きに明るい見通しが持てない、特に老後に明るい見通しが持てないからだ、という印象を強く与える書きぶりになっています。これだけで断定的なことは言えないでしょうが、今現在の状態に加えて、将来の見込みも幸福度に影響する可能性はかなりありそうです。考えてもみれば、現在の所得がある程度高くなると、将来もっと増えるだろうという期待より、もう増えないのではないか、あるいは下がるのではないか、という心配のほうが強くなるというのもうなずける話です。となると、今は所得は低いけれど上昇していて、これからもっと上昇するだろうと期待できる状況というのがいちばん幸福度が高いのかもしれません。日本の高度成長期はまさにそうだったでしょうし、安定成長期にもかなりそうした状況はあったのでしょうから、現在のわが国の幸福度があまり高くなくなっているというのも当然なのかもしれません。まあ、よくわかりませんが。

  • これはまったくの余談になりますが、平成21年度国民生活選好度調査の結果概要では、「幸福感に影響する要素は、(1)健康、(2)家族関係、(3)家計状況が3大要素、企業への期待は「給料や雇用の安定」、「仕事と生活のバランス確保」、政府への期待は「年金・医療介護・子育て」、「雇用や住居の安定」が重要課題」だと書かれています。ところが、具体的な設問をみると、「幸福感に影響する要素」については「幸福感を判断する際に、重視した事項は何ですか。」、「政府への期待」は「国民全体、社会全体の幸福感を高める観点から、政府が目指すべき主な目標は何だと思いますか。」と、それぞれ回答者自身の考えを訊ねているのに対し、「企業への期待」のほうは「企業や事業者による次のような行動のうち、その職場で働く人々や社会全体の幸福感を高めると思うものは何ですか。」と、他人がどう考えていると思うか、を訊ねています。まあ、会社勤めをしていない人も回答できるようにとの配慮でしょうが、この聞き方だと世間で喧伝されている、すなわち行政がやりたいと思っている「ワーク・ライフ・バランス」が上位にくるだろうことは容易に想像できるわけで、いささか姑息な感がなくもありません。

*1:この調査は内閣府の「平成21年度国民生活選好度調査」で、内閣府のサイトhttp://www5.cao.go.jp/seikatsu/senkoudo/senkoudo.htmlで結果をみることができます。

*2:これに関しては、「経済教室」で紹介されているものとは違うようですが、内閣府「平成20年度国民生活選好度調査」結果概要の中に類似のグラフが掲載されています。

*3:ハーズバーグの動機づけ・衛生理論については、たとえばhttp://jinjibu.jp/GuestDctnr/dtl/203/に紹介があります。

*4:マクロで長期的に所得水準が低下するということは現実にはなかなか起こらないでしょうから、実証は難しそうですが…。

*5:数値はhttp://www5.cao.go.jp/seikatsu/senkoudo/h21/21senkou_03.pdfにあります。

*6:http://www5.cao.go.jp/seikatsu/senkoudo/h21/21senkou_02.pdfにグラフがあります。

*7:http://www5.cao.go.jp/seikatsu/senkoudo/h20/20senkou_summary.pdf

「私立中入試―経済学で考える 競合校ほど試験日同じに」吉田あつし筑波大学教授

長くなりましたがもうひとつ。5月5日に掲載された吉田あつし先生の論考です。見出しには「違いの最小化が有利 受験機会の拡大へ規制も」となっています。「こどもの日」にこれが掲載されたのは意図があってのことでしょうか?偶然でしょうかね?ちなみに前日(5月4日)は「しつけを経済学で考える」でしたが…。

…東京都と神奈川県の私立中学の…入試は例年2月1日に解禁となり、1週間程度続く。しかし、偏差値が近かったり地理的に近接したりする私立中学の試験日は重なる傾向が強い。なぜだろうか。
…生徒獲得の戦略として、価格戦略差別化戦略が考えられる。…他方、競合校と競争しながら優秀な生徒を獲得する方法として、競合校との違いを最小にするという「最小差別化」戦略も考えられる。この点を明らかにしたのが、米国の統計学ハロルド・ホテリングである。
 ホテリングの有名な寓話(ぐうわ)は、一直線に横に広がるビーチで、2人のアイスクリーム売りがどこに店を構えたらいいかという立地場所決め競争の話である。ただし、海水浴客はまんべんなくビーチに居て、みなアイスクリームを食べたいと思っており、一番近いアイスクリーム屋に買いに行くものとしよう。また、アイスクリームの値段は同じだとする。
 その時、競争の結果、2人のアイスクリーム売りは、ちょうどビーチの中央を境界にして隣り合わせに立地することになる。それぞれがビーチの右半分と左半分の需要を分け合っている状態だ。どちらかが少しでも中央から離れると、もう1人の売り子がその横にぴたりとつけば、半分以上の需要をとることができる。そのため、2人とも中央から動かない。これが立地場所の最小差別化である。
 しかし、海水浴客全体からみると、この立地は望ましくない。アイスクリームを買うために移動する距離の総和がもっと小さくなる立地場所があるからだ。ビーチに等間隔に、つまり、左端から3分の1の距離の場所と右端から同距離の場所にアイスクリーム売りが立地している場合が、海水浴客全体の移動距離の総和は最小になる。この寓話の教訓は、価格が固定されているときに立地場所の競争を行うと、最小差別化がおこり、必ずしも消費者の利益にはならないということだ。

 実際の経済はこれほど単純ではない。企業の新規参入は起こるし、価格競争も起こる。しかし、費用構造に大きな違いはなく、競争が厳しい産業では、最小差別化戦略がとられやすくなる。例えば、同一路線で競合する航空会社の出発時間がある時間帯に集中するのは、この理論から説明できる。実際、競争が厳しくなるほど出発時間が集中することが、米国やノルウェーの航空市場で確認されてきた。その集中は、特定の出発時間帯に対する需要の大きさからだけでは説明できない。出発時間の集中は、消費者にとって不便であることは間違いない。
 それでは実際の私立中学の試験日程はどうなっているだろうか。競合校と同じ程度の偏差値で地理的にも近いなら、入試解禁日の2月1日に試験をするのが最適な選択であろう。競合校に対して競争力がないと考えるならば、2日以降に試験をするだろう。競合校の不合格者の受け皿になることができるからだ。募集人員を分割して試験を複数回行うという選択も可能である。実際、偏差値が60以上の学校でも、2回程度の入試を行っている学校は多い。60以下の偏差値では、3〜5回程度は入試を行っている。…65を超えるような高い偏差値帯では1日から3日までの間のどこかで1回だけ試験をする学校が多い。50〜60くらいの偏差値帯では、ばらつきが大きく、50未満だと2日のあたりに集中することがわかる。
 学校数が一番多いのは50未満の偏差値帯であり、ここでの学校間競争が最も厳しい。多くの学校は、1日、2日は必ず試験を行い、それ以外の日に数回試験を行う。競争が厳しくなるほど試験日…が集中する傾向にある。
 日程戦略をより具体的に考えるためには「サンデーショック」がある年に、各校がどのように試験日程を変えたかを見ればよい。サンデーショックとは、2月1日に入試を行っているキリスト教系の女子中学が、その日が日曜日であった場合に、日曜礼拝を優先させるため試験日を2日に移動させ、それに対応して競合校が試験日程を変えることをいう。最近では09年に起こった。
 このとき、キリスト教系校に追随して2日に移動させた学校のほか、逆に2日から1日に移動させた学校もあった。ショックに対応して2日に移動させた学校と1日に移動させた学校の違いは、直面する競争の厳しさである。前者の学校は、地理的にも偏差値的にも近接している直接の競合校がキリスト教系校である一方、後者の学校はその併願校になっているのだ。結局、競争が厳しければ競合校の試験日と同じにしていることがわかる。
 競合校の入試が集中するということは、子供の学力に見合った学校の受験機会が少なくなることを意味している。第1志望校に落ちた場合、第2志望校は学力に見合っていなかったり、遠い学校になったりする可能性がある。子供の学力に見合っていて、希望する学校に入学できた状態が社会的にみて望ましいとするならば、現状はホテリングの寓話の教訓そのままで、望ましい状態ではない。
 しかし、望ましい状態を実現するために、よりましな制度を導入するのは実際にはなかなか難しい。かつての国公立大学入試制度に、試験日を3回に分け、有力大学をそれぞれに割り振るという連続方式があったが、2年で崩壊してしまった。その理由は、東京大学京都大学の両方に合格した学生の多くが東大に入学したからである。
 もちろん入試解禁日さえ決めれば、私立中学が独自の判断で入試日を設定することに問題はないという考え方もある。しかし、私立中学といえどもすべて授業料や寄付金のみで運営されているわけではない。東京都の場合、都から生徒1人当たり40万円弱の経常経費補助が出ている。さらに、近年議論されているように、教育バウチャーを導入するなど私学に対する財政支援を今以上に増やしていくというのであれば、社会的に望ましい状態を実現するように、入試日程の規制も考えるべきであろう。
(平成22年5月5日付日本経済新聞「経済教室」から)
http://www.nikkei.com/paper/article/g=96959996889DE2E4E4EBE2E4E4E2E2E3E2E7E0E2E3E29997EAE2E2E2;b=20100505

まことに興味深い内容で、本ブログの読者の方ならこれが企業の採用日程(特に大卒文系)にも該当するのではないかと即座に感じられるでしょう。もちろん、企業は私立中学に較べれば、労働条件を改善したり(価格戦略)、業績のよさや人材育成の充実度などを売り物にする(差別化戦略)などの方法で競争する余地ははるかに大きいだろうとは思いますが、いっぽうで市場競争が厳しい中では同業と較べて労働条件や業績、人材育成などを大きく優れたものとすることもそれほど容易ではないでしょう。
もちろん、企業は特定の日だけに入社試験を行うわけではなく、ある程度の期間がありますので、私立中学のように試験日を同一にして併願をシャットアウトすることはできません*1。とはいえ、選考の時期が集中するのは似たような事情によるのではないでしょうか。たとえば、経団連の機関誌上で倫理憲章の遵守を宣言する経団連会員企業は、採用を行う企業全体からみれば相互にそれほど競争力の差があるわけではないでしょう。いっぽうでこれら企業は「最終学年に達しない学生には実質的な選考活動は行わない」という経団連の倫理憲章の規制に服しますから、結果的に4月1日から選考を開始して比較的短期間に終わる、という活動になることが多くなるのでしょう*2
また、倫理憲章はしょせん紳士協定であって、紳士協定を守らない紳士というのは当然(では困るのですが)いますし、そもそも経団連会員企業(で倫理憲章に参加している企業)でなければ倫理憲章も関係ないということで、卒業の前年度からの選考活動が横行しているというのも周知のとおりです。これも、俗に世間で「出足(選考開始時期)が早い」と言われるのは、「マスコミ」や「コンサル・シンクタンク」といった「業界」で語られたり、あるいは「外資系」といったカテゴリで語られたりするわけで、これらのように相互に労働条件や業績などの面での競争力の違いが大きくない「似ている」企業群においては、やはりどこか一社が抜け駆けをすれば他社もやらざるを得なくなるわけで、したがって早期化するということになるのでしょう。
いっぽうで、比較的新卒採用市場での競争力が高くないと目される*3中小企業などは、採用活動の(開始時期はともかく)主力となる時期は遅くなり、また期間も長くなっているのではないでしょうか。今年は有力中小企業の採用時期が早まっているそうですが、これも今年は新卒就職市場が厳しいことに加えて、市場で競争力のある大企業が採用予定数を減らしていることもあって、有力中小企業の競争力が相対的に高まっていることの現れとみることもできるかもしれません*4
こう考えると、就職できないままに卒業してしまった既卒者の就職がさらに厳しくなるのも自然だということになってしまいます(わが国ではそこの落差が極端すぎる感はありますが)。再度新卒就職に挑むべく留年する例が増えているそうですが、この理屈でいけばかなり厳しくなるはずで(それでも卒業してしまうよりは新卒採用に再参戦できるだけでもかなりマシですが)、留年した理由をよほどうまく説明できないと苦しくなりそうです。3月31日のエントリのコメント欄(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/comment?date=20100331#c)にある朝日新聞の社説では、「日本学術会議の分科会が、大学生を卒業後3年間は新卒と同様に扱うよう提案した」ことを紹介していますが、これも経済学的に考えれば、既卒になると極度に厳しくなることの緩和にはなっても、遅くなればなるほど厳しくなることの解決にはなりそうもない、ということになるのでしょう。
さて、こうした早期化・集中化・短期化の結果として就活生の望ましい就職が阻害されている可能性は、本文中の私立中学の例ほどではないにしても、かなり高そうな感じはします。まあ、就職が厳しいのは採用予定数の減少という循環的要因の影響が大部分だろうとは思われますが、しかししくみの問題があるのであればそれはそれで対応が必要でしょう(大きな期待はかけられないにしても)。
とはいえ、たしかに本文中にもあるように「よりましな制度を導入するのは実際にはなかなか難しい」わけですが、とはいえ私立中学に較べればまだしもできることもありそうに思えます。単純に考えて、早期化で困っているのなら開始時期を遅らせればいいわけで、いまの倫理憲章をより実効あるものとして(ここが非常に難しいわけですが)、選考開始時期を大幅に遅らせればいいわけです。実際、1985年までは選考開始時期は9月とされていたわけですので、やってできないというわけではないでしょう*5。集中化や短期化はこれでは解決せず、むしろ開始が遅くなる分集中化や短期化が進む懸念はあります。企業としても、新入社員研修など受け入れ準備を考えれば年内には終わっておきたいところでしょう。もっとも、採用数の少ない中小企業などでは年明けでもかまわないというケースも多いでしょうから、たとえば9月に始めて年末までの4か月ですべて終わってしまうということにもならないでしょう。むしろ、現状では学生からみた就活の長期化が問題視されているくらいですから、それほど障害にはならないでしょう。
問題はフライングによる早期化の防止ですが、この理屈でいけば競争力のある企業が憲章を守ればかなりの効果はありそうです。つまり、競争力の相対的に低い企業が早期化しても、その後新卒市場に大企業が参入してくると内定辞退が続発するでしょう。問題は競争力がある企業がフライングした場合で、これについては社会的な批判で抑止するしかなさそうなのですが、しかしその役割を担うべきマスコミがフライングしているのだからなぁ・・・orz
また、選考解禁日を遅らせることができたとしても、業界や企業ごとに採用日程をコントロールするというのは、仮にやってもいいということであってもかなり困難なはずです。それ以外の現実的な方法もなかなか考えつかず、企業に関しては「入試解禁日さえ決めれば、私立中学が独自の判断で入試日を設定することに問題はないという考え方」を取らざるを得ないかもしれません。なにかいい方法があればいいのですが…。

*1:これがに近いことが行われるのは内定解禁日に一斉に行われる「内定式」で、複数内定を獲得した学生はこの日に選択を迫られることが多いようです。

*2:秋冬まで長期的に選考を行う企業もありますが、それでも主力は4・5月というケースが多いようで、中には秋冬の選考は大学院からの進路変更者や海外大学卒業者が対象という例もあるそうです。

*3:当然ながら、傾向や確率の問題としてはともかく、競争力のある企業が必ずいい企業であるという保証はなく、競争力のない企業にもいい企業はたくさんあるでしょう。

*4:もちろん、供給サイド(就活生)の戦略変化もあるでしょうし、全体的に早期化している影響もあるのかもしれませんが。

*5:もっとも、その当時でも大手企業では各大学OBが非公式に後輩に接触する「リクルーター」活動はそれ以前から行われて、事実上の選考となっていたこともあるわけですが。

労政時報5月14日号

「"人事のプロ"が薦める15冊」という企画特集に寄稿しております。15冊とありますが、複数冊推している人もいるため、寄稿しているのは8人です。
https://www.rosei.jp/contents/detail/25768
私がご紹介したのは飯田経夫(1880)『「豊かさ」とは何か』講談社現代新書で、古い本なので今は版元品切ですし(ユーズドでは容易に入手できますが)、今となっては時代の違いは否定できない、というか今の若い人には読んでもわからない内容が多いのではないかと思いますが、私にとっては「私を作った成長本」というコンセプトにズバリ一致する本なのであえて取り上げました。…が、大衆的な新書を選んだのはどうやら私だけで、他の方々はそれぞれに格調高い本を上げられていて、いや飯田先生が格調高くないというわけではなくて、同じ飯田先生の『経済学誕生』か『日本経済の目標』(これら(特に後者)も私にとって大切な「成長本」でした)を選んだほうがよかったかな…とも思いましたが、まあカッコつけても仕方ありませんよね。

「豊かさ」とは何か―現代社会の視点 (1980年) (講談社現代新書)

「豊かさ」とは何か―現代社会の視点 (1980年) (講談社現代新書)