「一般職に男性」大いにけっこう!

hamachan先生のブログで拾ったネタです。日経ビジネスオンラインの記事から。

 一般職に応募する男子学生、就職専門の家庭教師に指導を受ける有名私立大学生…。買い手優位の厳しい雇用環境を背景に、学生の就職戦線に異変が起きている。「ゆとり教育」世代が就職期に入り、全体の質が落ちた影響と採用側は言う。
 「一般職に、男ですよ」
 困惑を隠し切れないといった表情で、ある生命保険会社のベテラン採用担当者が話す。企業の採用活動が本格化する4月。その最前線では、一昔前なら考えられない事態が起きている。
 この保険会社では、長らく一般職と総合職の2つの職種で学生を採用してきた。一般職は、社内の事務処理などの仕事が中心であり、キャリアを積み重ねていく総合職とは異なる。応募条件に男女の制限はないが、通常は女性が就く職種と考えられてきた。
 ところがここ数年、一般職の応募者に男子学生の姿を散見するようになったのだという。想定していなかった事態に、採用側も戸惑い気味で、「理由を一生懸命分析している」と採用担当者は言う。
 彼らはどんな理由で一般職に応募するのか。先の採用担当者によれば、ある男子学生の志望理由は、「遠方への転勤がないから」だった。「一般職は、勤務地が大きく変わることがないことから、自宅から通える仕事を安易に選んだ、というのが本音だったようだ」。
 一般職に群がる男子学生――。こうした動き、実は業種を問わずに広がっている。…
 無論、特殊な事情で一般職を希望する男子学生もいる。「家庭の事情などで、自宅を離れられないことから仕方なく応募する場合もある」と、損害保険会社の採用担当者が言う。
 ただし、それだけではここ最近の増加を説明できない。…一般職を選ぶ学生は、従来、派遣会社などに登録をしていたという。ところが、昨今は派遣切りが広がり、「派遣は不安定」というイメージが刷り込まれた。その結果、正社員志向の学生が増え、多くが一般職に流れ込んでいるという。
 厳しい総合職の選抜競争を避け、「とりあえず一般職へ」と考える学生も増えている。「競争の激化で、総合職の内定獲得を最初から諦める学生もいるようだ」とメガバンクの採用担当者は言う。いわゆる、草食化。そんな傾向が、一部の学生に見られる。

…だが、大企業の採用担当者は手厳しい。「一般職に応募する男性は、まず採用しない」と口を揃える。
 もっとも、男女雇用機会均等法以降は、一般職と総合職に男女の制限はない。現実には総合職への女性進出が拡大しており、逆の現象が起きる可能性もゼロではない。実際、ある採用担当者はこう言う。「まとまった数の男子学生が一般職に応募してくれば、採用方針も変えざるを得ないかもしれない」。近い将来、総合職の女性と一般職の男性が結婚し、「男の寿退社」が始まるかもしれない。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100408/213893/

これに対してhamachan先生は「男女均等やら男女共同参画なんてどこの世迷い言やらという世界ですなあ」「ビジネスの最先端の感覚は、「男たるもの、一般職なんて恥ずかしいと思え」という世界でありますか」などなど、憤懣やるかたないご様子であります。男女雇用機会均等やワークライフバランスの推進や、さまざまな意味で厳しい雇用失業情勢の改善に責任を負わされて日夜奮闘している組織の一員としては当然の反応と申せましょう。
まあ、この記事自体は「「ゆとり教育」世代が就職期に入り、全体の質が落ちた」という、陳腐なゆとり教育批判・若者批判を意図したもので、結論そのものはことによれば一理あるかもしれません(ないかもしれません)。ただ、それを男性だったら総合職で栄達をめざすべきだとか、転勤を厭うべきではないとか、厳しい就職環境下でも逆風に挑むべきだとか、激しい競争に立ち向かうべきだとか(そして、女性はその逆であってよいとか)いった古色蒼然たるジェンダー価値観をベースに展開しようとしているところがイタいことこの上ないわけです。
むしろ、仮に「ゆとり教育」によってこうした旧来の価値観から解放された、自由な考え方を持ってそれを表明する若者が生まれつつあるのであれば、それはゆとり教育の弊害というよりは「成果」と申し上げてもいいくらいではないかと私などは思うわけでして。いや、本当にゆとり教育によってそうなったのかどうかは検証してみないとわからないわけですし、それをもってゆとり教育が全面的にすばらしいものだなどと申し上げるつもりは毛頭ありませんが。
それはそれとして、企業の採用の現場がほんとうにこんな古めかしいアタマで運営されているのかどうか、まあ企業も多様ですからそういう採用現場もあるのかもしれませんが、しかし大抵の企業はもっとオープンマインドに採用を行っているはずだと私は思いますので、多くの企業にしてみればあたかもすべての企業がこんな調子だという書き方をされるのは不本意でありましょう。

  • ちなみに、霞ヶ関の中央官庁におかれても、アルバイトの「事務補助員」はそのほとんどが女性、かつ大半は若年女性でありましょう(単なる印象で根拠なし)。そういえば、長妻昭厚生労働相は野党時代に「事務補助員は世間相場に較べて賃金が高く、かつ職員の縁故採用が多数を占めている」と批判しておられたと記憶します。厚生労働省では今ではさぞかし事務補助員の賃金切り下げと縁故採用の根絶が進んでいることと思いますが、縁故をやめて公募にしたのであればなおさら、男性の採用も拡大してほしいものだと思います。

ただ、そこはなかなか巧妙に書かれてもいるわけです。たとえば「「ゆとり教育」世代が就職期に入り、全体の質が落ちた影響と採用側は言う。」と書いているわけですが、これは誰か一人でもいいから企業の人がそう言ってくれれば、それでウソではなくなるわけです。となると、均等法が1985年ですから、それ以前からいる50代の「ベテラン採用担当者」の中には総合職と一般職といったコースすらない、男女別人事管理をいまだに引きずっている人だって一人くらいはいるかもしれません。そういう人をつかまえてきて、自分の主張に都合のいい事例として適当に誇張すればもっともらしく書けることは書けるわけで、そういう意味ではレトリックの面白いサンプルであるとはいえるかもしれません。
あるいは、「大企業の採用担当者は手厳しい。「一般職に応募する男性は、まず採用しない」と口を揃える。」というのも同様で、「大企業の採用担当者」が二人そう言ってくれれば「口を揃えた」ことにはなるわけです。しかもこの書き方なら同一企業の二人でもいいわけで、なるほど巧妙な書き方と申せましょう。ということで、これもきっと誰か二人(以上)がそう言ってくれたのでしょうし、であればウソを書いているわけではありません。
ただし、「一般職に応募する男性は、まず採用しない」というのはあからさまな均等法違反なので、こんなことを記者相手に平気で言ってしまうとしたら相当に程度の低い話と申し上げざるを得ません。大企業の採用担当者であればコンプライアンスには相当気をつかっているはずで、そういう人たちが本当にそんなことを言ったものかどうか、はなはだ怪しいものだという印象はあります。
もっとも、そうは言っても「男性の一般職」というのには滅多にお目にかかれないのも事実ではあります(ただ、そもそも「一般職」というもの自体があまりお目にかかれない代物になってきた感もこれありますが)。これについては、企業はむしろ一般職が女性100%であることのリスクのほうをむしろ意識しているはずで、男性の一般職も採れるものなら採ろうと考えている企業のほうが多いのではないかと思われます(表立って言わないだけで、現に採っている企業も多いと思います)。とはいえ、現実に応募が女性ばかりで、数少ない一般職採用の枠がそれで埋まってしまうのであれば、それでもいいかという採用になっているのでしょうか。
それはそれとして、本当に一般職に応募する男性が増えているのであれば、これは注目に値する変化と申せましょう。故飯田経夫先生は1980年に刊行された講談社現代新書の名著『「豊かさ」とは何か』の中で、「手帳にぎっしりと書き込まれたスケジュールをにらみながら、その消化に追いまくられるわれわれ自身の生活は、何と胃の痛くなるような無理の連続であろうか。」と述べ、わが国の「豊かさ」が実に多数の「異常な無理」をあえてすることによって実現されたということを強調しておられます。そして、その時点ですでに、日本の若者は小粒になり、気宇壮大さを失い、ふがいなくなったが、これこそが「豊かさ」というものだ、と述べておられます*1。それからさらに30年を経過した現在、20歳前後の人の中には「すでにこれだけ豊かなのだから、これ以上しんどい思いをしてまでもっと豊かになりたいとは思わない」という人がそれなりに出てくるのはむしろ自然なのではないでしょうか。実際、この30年の間には、グローバル化やら情報通信革命やらで、外国人のコミュニケーションとかITリテラシーとか、より豊かになるために一段と多大なストレスの増加を余儀なくされてきたわけですから。
そうした中で、世の中の空気としてはまだまだ「一般職は女性のもの」という風潮が残っていて、男性はそれにはなかなか応募しにくいということで、まずは派遣に登録する若年男性が増えてきたというのは、ある意味うなずけなくもない話です。となると、その中から世間の「変な奴」「消極的」といった偏見にあえて逆らって*2、より安定した「一般職」に応募する男性が出てくるという成り行きになるのも自然でしょう。
私はこれは、むしろ好ましい方向の変化であると考えたいと思います。男たるもの立身出世をめざし、一国一城の主として妻子を養うべきである、といった画一的な人生観しかない社会というのは、やはりいささか息苦しい感はあるわけで、多様な価値観が認められることが望ましいのではないかと思うからです。
転勤はしない、残業も基本的にはしない、責任もそれほど重くなく、大きなノルマを負わせられることもない、そのかわり賃金などの労働条件や、昇進昇格といったキャリアもそれなりのものにとどまる、といった働き方は、かつてはたしかに「女性一般職」のものでした。やがて男女雇用機会均等と両立支援が要請されるようになり、こうした「女性一般職」の働き方に両立支援をセットしたスタイルは「マミートラック」と称されて排斥される傾向にあります。なるほど、「マミートラック」はキャリア形成の面で不十分との指摘はそのとおりですが、しかし働く人自身が自らの生き方・働き方・キャリア形成をそのようなものにすることを選択するのは本来自由なはずです。「マミートラック」の基本的な問題点はそれが女性に固定されることにあって、男女ともが選択でき、現に選択できるのであれば、こうした働き方は「スロー・キャリア」として認められていいのではないでしょうか。そうなれば、夫婦がともに「スロー・キャリア」で働き、家事・育児もともに担う、というライフスタイルも十分可能になるでしょう*3。もちろん、記事にあるように、「ファスト・キャリア」の女性と「スロー・キャリア」の男性が結婚して、男性が「寿退社」だって出てくるでしょう。それはそれで本人たちの合意による自由な選択にもとづくものであれば大いにけっこうな話ですし、むしろ望ましい社会像と申せましょう。記事はどうやらご不満のようすですが、それこそhamachan先生ではありませんが「どこが悪い?」ってなもんです。
したがって、企業としては記事にあるような「まとまった数の男子学生が一般職に応募してくれば、採用方針も変えざるを得ないかもしれない」といったリラクタントな姿勢ではなく、こうした変化を先取りした見直しに積極的に取り組んでいくべきではないでしょうか。そもそも、趨勢として企業組織の拡大が停滞する(もちろん成長する企業もありますが)中では、かつてのように男性全員を幹部候補生として採用し、同期で競争をさせながら、早いか遅いかの差はあっても大半の人はいずれそれなりのポスト(大卒なら課長、高卒なら係長くらいでしょうか)にはつくことができた、という時代ではなくなっているという現実もあります。男女ともに選択することができる「スロー・キャリア」という働き方の整備にそろそろ取り組む必要が出てきているのではないでしょうか。もちろん、その中では「スロー・キャリア」と「ファスト・キャリア」のコースチェンジを可能とすることも十分考慮に値するでしょう。

  • それでは全員が「スロー・キャリア」になってしまったら企業はもたないし、豊かさも維持できないだろう、というご心配もあるでしょうが、「ファスト・キャリア」の供給が減れば当然その賃金など労働条件は上がるわけですし、そもそも「ファスト・キャリア」に魅力を感じる人はいつの時代も一定割合はいるでしょう(男女を問わず)。

もちろん、世の中急には変わりませんから、男性はなかなかスロー・キャリアを選びにくいという風潮・心理は残るでしょう。ただ、いずれにしてもキャリアは自分の思い通りにはならないということを考えれば、従来型のキャリアコースを外れた人を一律に「負け組」視するような考え方は変えていくことが望ましいのではないでしょうか。もちろん仕事で出世競争のトーナメントを勝ち抜いて栄達を目指すのもいいでしょうし、どこかで適当に降りて家庭生活や地域生活、趣味などにも喜びを見出していったほうが定年後も含めればハッピーだと考えるのもいい、それこそどれを選んでもあらためて「どこが悪い?」などと言わずにすむ社会になってほしいと思いますし、徐々になりつつあるのかもしれません。

  • 為念申し上げておきますが、私の知る人事担当者の中はこの十数年にわたって新卒入社者のさまざまな観点での平均的な水準が趨勢的に低下しているとの見解を持っている人も多く、私もそれをすべて否定するものではありません(私にはそうした実感はあまりないのですが)。それは1980年以降の学校教育の内容・授業時間の減少の影響があるのかもしれませんし、あまりないのかもしれません。

*1:飯田先生が偉いのは、これを単純に「悪」「退歩」と一律に断定せず、自分たちが追求してきた「豊かさ」の実現として受け入れるべきとしているところで、そこが世間にありがちな皮相な若者論と一線を画すところです。

*2:逆にいえば、世間の偏見に逆らうくらいの気概はあるということにもなるわけですが。

*3:もっとも、一部のフェミニストなどが主張する「あらゆるすべての男女が等しく働き、家庭責任も等しく担うべき」といった画一的な発想は、これはこれでかなりヤバい感じのする社会像だと思いますが。