本田由紀『教育の職業的意義』

「キャリアデザインマガジン」第90号に寄稿した書評を転載します。

教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ (ちくま新書)

教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ (ちくま新書)

企業の人事管理に対する認識と評価は本田ワールド全開で、それを取り上げていては評にならないので、他の有意義な部分を生かすべく企業の事実と現実の立場からの妥協点を探ってみた…という感じの書評です。著者はおそらくはなはだ不本意でしょう。


 「こんなことを勉強して、いったい何の役に立つのだろう?」
 中学校はともかく、高校生ともなればほとんどの人が1度や2度はこうした疑問を感じたことがあるに違いない。実際、たとえば高校の数学で学ぶ三角関数や行列などは、エンジニアになる人には必需品だろうが、多くの仕事ではまずまったく必要ないだろう。大学で学ぶ経済学も似たようなものだろうし、哲学ともなればなおさらだろう。もちろんこれらには教養として消費されるという一面もあるわけだが、いっぽうで「職業的意義」は乏しいといえる。この本は、日本で長らく見失われてきた「(学校)教育の職業的意義」の回復が今まさに必要であることを広く訴えることを目的としているという。
 序章では、著者の主張に対する否定的反応がいくつかカリカライズされて紹介され、それに対する著者の反論を述べるという形で、著者の主張の概略が示される。「教育の職業的意義」とは、働く側が働かせる側に〈抵抗〉するための手段である労働に関する基本的知識と、働く側が仕事の要請に〈適応〉するための個々の職業分野に即した知識やスキルの両輪から成るとされる。
 第1章では、教育の職業的意義が必要とされる社会的背景が説明される。近年、若年の非正社員が増加しており、その多くが労働条件や能力向上などの面で厳しい状況に置かれていることが紹介される。
 第2章では、教育の社会的意義が見失われてきた歴史的経緯が述べられる。高学歴化・職業教育の地位の低下と労働力不足が相まって企業内育成が主流となり、それがさらに教育の社会的意義を低下させたということだろうか。
 第3章は国際比較である。日本の学校教育における職業的意義が諸外国と比較して低いことが紹介される。
 第4章では教育の職業的意義と「似て非なるもの」である「キャリア教育」が批判される。現行のそれは曖昧なうえに社会的準備を欠いており、むしろ柔軟で幅のある専門教育と労働の実態・制度などの現実の事実を教えることが必要と訴える。
 第5章は「「教育の職業的意義」の構築に向けて」と題されている。多くの内容を含むが、ごく大雑把にいえば「柔軟な専門性」を育てる「職業的意義ある教育」の実現を通じて、学校教育のみならず企業、家庭、社会全般の変革をはかるべき、ということになるだろうか。
 まことに野心的で、熱意にあふれる本だ。この本もまた「社会変革」を訴える書であって、「序章」に端的に示されているように異論との闘争が強く意識されているから、どうしても極論に振ったり、承知で行き過ぎたりする部分は出てこざるを得まい。また、教育の観点からの議論なので、どうしても教育の都合に社会を合わせるという「尻尾が犬を振り回す」(もちろんこれはレトリックであって、教育の重要性を考えれば「尻尾」という用語はふさわしくないのだが)ような傾向が見られるのも致し方あるまい。ここで大切なのは、その方向性だろう。
 そう考えれば、高校教育や大学教育においてもっと職業的意義のある内容を増やすべきだ、との方向性は、大方においてそれほど違和感なく受け入れられるものではないか。実際、著者も指摘しているように、職種別採用や職務給などはすでに拡大をはじめている。非正社員の太宗はそれであって、その比率が上昇したことは周知のとおりだ。なるほど、現在では法的な不備もあって非正社員の職務は比較的技能レベルの高くないものに集中している感はあるが、いずれ制約が取り除かれればより高度のスキルを活かし、キャリアの伸長が期待できる「職種別採用・職務給」の仕事も増えていくだろう。そうなれば、過度の期待は禁物としても、職業的意義ある教育の必要性が高まるだろうことは容易に予測できる。もちろん、メンバーシップ型の長期雇用がなくなるということは考えにくいから、教養豊かでリーガルマインドや実証研究精神を身につけた人材へのニーズもなくなることは想定しにくく、したがってそれらを重視した大学教育もかなりの規模で存続はするだろう。働き方も学び方も多様化する中で、方向性としては職業的意義ある教育の役割が高まっていくというのが望ましいあり方だろうし、実際にそのように進むのではないか。
 キャリア教育についても同様、現実にはこれもまだ試行錯誤段階であって、著者の主張する方向性も有力なように思われる。たとえば、労働に関する基本的知識を学ぶことは、必ずしも全員が被用者となるわけではなく、一部ではあろうが経営者となる人も出るだろうし、さらに多くの人はいずれ管理監督者として人事管理に従事するだろうことを考えれば、まことに重要といえそうだ。内容的にも単に法律を逐条的に学ぶのではなく、その背景となる人事管理や労使関係についても適切に学ぶことが求められるのではないか。また、具体的な職業スキル、知識に関しても、早期であればあるほど分野の特定が難しいことを考えると体験的・トライアル的なものとならざるを得ないだろうが、一定の意味はありそうだ。もちろん、選択は不可避であって不安をともなわざるを得ないということも学ぶ必要があり、これまた今後の充実に期待すべきものだろう。
 この手の本にはどうしても「諸刃の剣」的な危険性がつきまとうのではあるが、「極論の書」であることを意識して読めば、こと教育に関しては専門でない人も含めて有益な示唆を多く得られる本なのではないだろうか。