うざい思いをせずにすむには

池田信夫先生が、ご自身のブログの一昨日のエントリ(http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/2c785fdf87ab3e093029e0601e363952)でまた解雇規制を取り上げられています。

 「解雇自由」の定義をめぐってつまらない議論が繰り返されるのもうざいので、ここでまとめて書いておこう。そもそも解雇自由という言葉が多義的であり、民法では解雇自由の原則を規定している。この定義はビジネスの現場ではもっと多様で、たとえば人事コンサルタントの鈴木雅一氏は次のように書いている…
(中略)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/2c785fdf87ab3e093029e0601e363952、以下同じ)

「そもそも解雇自由という言葉が多義的」「この定義はビジネスの現場ではもっと多様」ということですから、労働法や労働政策を論じる場合の一般的な定義とは異なっていたっていいじゃないか、ということなのでしょう。これは事実上ご自身の誤りを認めておられるわけですが、だったらもっとすっきりと認めてしまえば「うざい」思いをしなくてすむと思うのですが。労働研究者ではないわけですからその程度の間違いは十分あり得るわけですし、労働研究者でない経済学者の知見も労働政策の議論に一定の有用性があるわけなのですから。
もっとも、私は「解雇自由」には一般的な定義しか即座に思い浮かばないので、「多義的」と言われてもピンと来ないのではありますが。「ビジネスの現場ではもっと多様」というのは、焼鳥屋のカウンターや床屋もとい理髪店の椅子の上ではそうかもしれないな、とは思いますが…。

 つまり解雇自由=Employment at willという原則は主要国では変わらず、それが労働者に不利にならないように条件をつける構成になっていることも共通なのだ。ところが日本では、この原則と例外の関係が法的に明確でなく、解雇権濫用法理などによって事実上すべての(4要件を満たさない)整理解雇が違法ということになっている。これが経営者を萎縮させて正社員の雇用を減らし、非正規雇用を増やしているのである。

うーん、しかし、日本でも民法は一応解雇自由ということになっていて、「それが労働者に不利にならないように」解雇権濫用法理で「条件をつける構成になっている」わけではあり、それなりに「法的に明確」ではないかと私などは思うわけですが…。解雇規制の厳しさに国によって違いがあることは間違いありませんが、それはまた別問題ではないかと。

 私が書いているのは、今のような曖昧な解雇規制を改め、労基法に解雇自由の原則を明記し、どういう場合には解雇を禁止するか、あるいは解雇の際に労働者にどういう配慮をすべきか、といった規定を明文で設けるべきだ、という世界の常識にそった話だ。この点は2003年の労基法改正のときも議論され、労組の反対でつぶされたが、OECDNIRAの報告書を読めばわかるように、こういう考え方が経済学者のコンセンサスだ。

現在では解雇権濫用法理が規定されているのは労働契約法なので、解雇自由の原則を明記するのだったら労働契約法のほうがいいでしょう。で、たしかに最初労基法に解雇権濫用法理が明記された際には、当初は「使用者は、この法律又は他の法律の規定によりその使用する労働者の解雇に関する権利が制限されている場合を除き、労働者を解雇することができる。ただし、その解雇が、客観的かつ合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」というような案でした。これに対して、前段部分の「労働者を解雇することができる」というのが、使用者に「労働者を任意に解雇できるとの誤解を与える」「解雇の合理性・相当性に係る立証責任の存在が不明確」との理由で、国会で修正(削除)されたわけです。たしかにこのときに連合などは削除を強く主張しましたが、経団連などの使用者サイドにも、これを明記してもしなくても現実の運用はなんら変わらないことから、あえて削除に反対もしなかったという経緯があります。まあ、実際「社長に口答えするような奴は、解雇されても当然合理的かつ相応だ」なんて思ってしまう経営者がいないかといわれれば、いないとはなかなか言い切れないわけなので、「誤解を与える」と言われればそのとおりと言わざるを得ないでしょう。
で、「どういう場合には解雇を禁止するか、あるいは解雇の際に労働者にどういう配慮をすべきか、といった規定を明文で設けるべきだ」というのは、特に前段については経営サイドとしても悩ましいところではあります。新卒採用で20年間誠実に勤務してきた人を、一時的な成績不良で解雇するのは行き過ぎでしょうが、一方で営業部長として高給で引き抜いてきた人が、この会社ではさっぱり成績が上がらない、という場合には解雇もやむなしとしてもらいたいわけです。こういった個別判断を「明文で設ける」ことは不可能というより他なく、したがって「合理性と相当性のない解雇は権利の濫用で無効」「労働者に非がなく、経営上の都合で解雇する場合には4要件を満たすことが必要」(もっとも、これは裁判所によってかなり異なる判断も出ていますが)という大枠を決めて、あとは個別判断、というのは、それなりに理にかなっているのではないかと私は思います。
いっぽう、「解雇の際に労働者にどういう配慮をすべきか」というのは、具体的にどういうことを指しているのか不明ではあるのですが、とりあえず解雇無効とされた場合の金銭解決については、私はぜひともルールを整備すべきではないかと考えています。どのようなルールが望ましいかは、すでに何度か書いているので繰り返しませんが。

 ただ経済学者の議論は実装段階を考えていないので、こういうpolitically incorrectな改革を政治的アジェンダとして設定するにはどうすればいいか、あるいはどう法制化するかといった点については、政治家や官僚との議論も必要だと思う。しかし「霞ヶ関の辞書」だけを絶対的真理と思い込み、自分と違う考え方を頭から「無知蒙昧」などと罵倒してかかるような党派的態度からは、建設的な議論は生まれない。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/2c785fdf87ab3e093029e0601e363952

 えーと、労働経済学者の多くは実装段階を考えていると思いますが。彼らの意見が池田先生とは異なっているのにイライラされるお気持ちはわかりますが…。それから、hamachan先生にイライラされるのもよくわかりますが、しかし自説のみを絶対的真理と思いこみ、自分と違う考え方を頭から「天下り学者」などと罵倒してかかるような態度からは、建設的な議論は生まれない、と書き換えてみると、池田先生ご自身により該当するのでは?hamachan先生はなにも意見が違うことに対して批判しているわけではなく、池田先生が北欧を引き合いに出されるときの出し方がおかしいとかいったことを批判されているように思うのですが。