私たちもお手伝いします

もう1日お蔵出しで、日本経団連人事賃金センターの機関誌「職務研究」236号、2004年3月号に掲載したエッセイを転載します。この組織は旧日経連職務分析センターで、職務分析そのものはわが国ではすたれてしまいましたが、長年にわたってこの名称で活動を続けていました。いつしか組織名称は「人事賃金センター」に変わりましたが、機関誌の名前は伝統を守っているようです。



「私たちもお手伝いします」

13歳のハローワーク」という危機

 ベストセラー作家の村上龍氏が書いた「13歳のハローワーク」という本が大ヒットしました。「いい大学に行って、いい会社や官庁に入ればそれで安心、という時代が終わろうとしています。」「できるだけ多くの子どもたちに、自分に向いた仕事、自分にぴったりの仕事を見つけて欲しいと考えて、この本を作りました。」「この本は、今の好奇心を、将来の仕事に結びつけるための、選択肢が紹介してあります。」ということのようで、かなり多数(宣伝によれば514種)の職業が紹介されています。
 しかし、働く人の大多数を占める「会社員」という職業は紹介されていません(「公務員」は紹介されていますが)。会社員では大雑把すぎるというのであれば、経理部員とか人事担当者とかいうのが紹介されていてもよさそうなものですが、それもありません。どうやら、「サラリーマンとOLを選択肢から外して仕事を考える」べきだ、というのが村上氏の考えらしいのです。
 村上氏によれば、かつては「たとえば溶接工は、工業高校を卒業し、比較的短期の研修を経て、すぐに造船などの現場に送られ、そこで腕を上げ熟練者になると、社会的・経済的に『成功者』になることが可能だった」ので、好きな仕事でなくても会社のいうとおりに働いていれば、それなりに「安心」「経済的成功」などの見返りがあった。しかし、もはや時代は変わり、会社の求める仕事を長年勤めても見返りが得られない危険性が高まっている。であれば、「何らかの方法で生活の糧を得なければならないとしたら、できれば嫌いなことをいやいやながらやるよりも、好きで好きでしょうがないことをやるほうがいいに決まって」いるのだから、会社の都合優先で好きなことができない(かもしれない)サラリーマンとOLを選択肢から外しなさい、というわけです。
 そうなると、「いい大学に行って、いい会社や官庁に入ればそれで安心」というわけにはいかないので、「子どもが、好きな学問やスポーツや技術や職業などをできるだけ早い時期に選ぶことができれば、その子どもにはアドバンテージ(有利性)が生まれます。」ということで、だからこの本を買い(与え)なさい、ということなのでしょう。
 この理屈によれば、読者諸兄も私も(『職務研究』は読み手も書き手もほとんどが企業の人事担当者でしょうから)、自分の仕事が職業の選択肢として認められないだけではなく、人々を「好きではない仕事」に配置する悪役、諸悪の根源であるということにもなりかねません。そして、現実にこの本がよく売れたということは、実に多くの人たちがこの論法にうまうまと乗せられたということにほかなりません。私たち人事担当者としては、まことにゆゆしき危機的事態と考えなければならないでしょう(ちと大げさか)。

職業選択とキャリアをめぐる「風説」

 とはいえ、村上氏の説はそれほど珍しいものではなく、これまでの仕事選びや熟練形成の一般的なスタイル、すなわち「学校を卒業して社会に出るときには、漠然とした関心や将来の見通しなどにもとづいて、親や指導教員や先輩などの意見も聞いて就職し、仕事をこなしていくうちに、いずれ関心や能力が高まっていく」というようなスタイルに対する批判的・否定的な意見は、昨今では広く世間にみられるものです。
 いわく、これからは会社に依存せず自立しなければならない、自分の能力やキャリアの形成も自己責任だ、社会に出る前にやりたいことを明確化し、「就社」ではなく「就職」すべきだ、長期勤続で会社が求めるとおりに仕事をしていたのでは労働市場で通用する人材にはならない、などといった主張を目や耳にしない日はないくらいです。バリエーションはいろいろあるようですが、あちこちからふわふわ漂ってくるということで「風説」と呼ぶことにしましょう。「13歳のハローワーク」は、村上氏がこうした「風説」を作家らしくロマンティックに書きあげたものだともいえそうです。それでこれほどたくさん売ってしまうのですから、さすがベストセラー作家の手腕はたいしたものだと認めざるを得ません(成果主義ですな)。
 さて、こうした「風説」ですが、私たち企業の実務家からみてもそれなりにもっともだと思える部分もあるいっぽう、全体としてみればかなり違和感の強いものでもあります。多様化の時代ですから、一般的なスタイルにこだわらず、さまざまな仕事選びや熟練形成のありかたがあっていいのはもちろんですし、キャリア・デザインやキャリア・ディヴェロップメントの重要性が高まっていること(まあ、世間ではいささか安易に騒ぎすぎの感もなきにしもあらずですが)や、子どもに早い段階から職業に関する教育をしっかり実施していくことの必要性については読者諸兄も同意されるものと思います。しかし、だからといって、村上氏がいうように、これまでのやり方を全否定しなければならないというのはいくらなんでも納得できません。
 たとえば、本誌に掲載された各社の事例をみると、高度な熟練工は高い評価と尊敬の対象であり、若年社員が目指すに値する目標であると位置づけられているようですが、「風説」にしたがえば、こうした企業や人生は時代おくれ、あるいは例外ということになってしまいます。本当にそうでしょうか。本当に、好きな職業をできるだけ早い時期に選び、サラリーマンを選択肢から外して考えることが有利な時代がくるのでしょうか。作家の本はフィクションであってもとりあえずかまわないとしても、実務をあずかる読者諸兄は、「風説」をうかうかとうのみにして振り回されることの危うさを直観的に感じ取っておられるものと思います。

好きなこと、やりたいことを職業にすることの危うさ

 「風説」は、「嫌いなことより、好きなことをやったほうがいいに決まっている」と主張します。例外は多そうですが、それはそのとおりとしましょう。しかし、だから好きなことを職業にするのがいい、という単純な主張には、いかにも危ういものを感じます。
 職業にする以上は、ほとんどの場合「好き」なだけではなく、「できる」(あるいは「(遠からずできるようになる程度には)向いている」)ということが求められます。もちろん、「好きこそものの上手なれ」というのはかなりの程度真実でしょうから、「好きなこと」が「できる」可能性は高いでしょうし、「好きなこと」を「できること」にするために努力することはおおいに意味のあることだろうと思います。好きであればあるほど、より多くの努力を傾けることができるでしょう。それでもなお、こと職業に関しては、「嫌いなことより好きなことをやったほうがいい」という単純なものではなく、「好き−嫌い」と「できる−できない」の程度のバランスの問題だというのが現実でしょう。
 たとえば、音楽が大好きだからミュージシャンになる、あるいは絵を描くのが大好きだからイラストレーターになる。しかし、能力の壁や限界に行き当たったり、認められない、仕事が得られないといった厳しい現実に直面する。それでもなお、音楽や絵がやれるならそれだけで幸せだ、という人はそれでもいいのでしょう。しかし、かつてはあんなに好きだったはずの音楽や絵が、いつのまにか嫌いになってしまっていた・・・というのも、おそらく世間ではありふれた話の部類に入るのではないでしょうか。
 好きなこと、とりわけ「好きで好きでしょうがないこと」に関しては、それを仕事にするより、愛好家としてそれから人生の喜びを得るという生き方のほうが幸福だという人のほうが、むしろ多いくらいかもしれません。

「好きな仕事」「向いた仕事」がわかると考えることの危うさ

 「風説」は、13歳(早い時期)で自分の好きな職業を選べと主張します。しかし、そもそも13歳(でも18歳でも22歳でも似たようなものですが)の人に、自分が「好きな仕事」、あるいは自分に「向いた仕事」が本当にわかるものなのでしょうか。「自分のことなんだから、当然自分でわかるだろう」というこれまた単純な発想で、危ういことこのうえありません。
 もちろん、13歳にもなれば、なんとなく関心があるとか興味があるとかいったことはわかるでしょう。しかし、自分にとって職業としてよかったと思えるような「好きな仕事」「向いた仕事」が何なのか、13歳、あるいは18歳、22歳で自信を持って「わかった」といえる人は、実はかなり幸福な例外なのではないでしょうか。
 『職務研究』を手にとり、『人事管理私論』にまで目を通すくらいですから、読者諸兄はおそらく人事管理の仕事にやりがいと適性を感じているものと思いますが、はたしてみなさんは13歳、あるいは18歳、22歳のときに、自分が将来人事管理の仕事をしたいとか、それに向いているとか思っていたでしょうか?私自身の話を持ち出して恐縮ですが、私の場合はなんとなくモノづくりが好きだからというくらいの理由で自動車メーカーに入社し、同じ理由で事業所勤務を希望して配属され、その後これまたなんとなく「違う部門の仕事もしてみたい」という曖昧な希望を出したところ人事部に異動となり、そこで日々降りかかる火の粉を払うように仕事をこなしているうちにこの仕事が好きになり、いつのまにか十数年がたっていま『人事管理私論』を書いている、というのがほぼ実態で、13歳はもちろん、18歳、22歳のときにも思いもよらなかった現実がいまあります。もちろん、読者諸兄のなかには、人事管理に関心をもって経営学部に進み、人事管理論のゼミをとって、人事部への配属を希望して就職したという方もおられることとは思います。しかし、いっぽうで私と同様に、ある意味「意図せざる結果」として人事管理の仕事に働きがいと適性を見出したという方も多いのではないかと想像します(そうでもないでしょうか?)。
 結局のところ、人間が持っている自分自身についての情報も仕事についての情報も限りがあるので、自分が何が好きかとか、何に向いているかとかいったことは、自分でもなかなかわからないというのが多くの現実ではないでしょうか。実際にその仕事をやってみなければわからない情報もたくさんあり、そういう情報こそが大切だということも多いのではないでしょうか。
 しかも、仕事だけではなく、自分自身も時とともに変化します。大企業の管理職が僧侶になったとか、裁判官が居酒屋の店長になったとかいう話を耳にしますが、彼らもずっと管理職や裁判官が嫌だったというわけではないでしょう。やりたいこと、向いていることが生涯不変だという保障はありません。それは多くの人にとって、若いころに限らず、一生かかって探し続けるものなのかもしれません。
 「風説」がいうように、早い段階から将来の職業を決めて、「この学校に行き、この勉強をして、こういう経験をして、こういう能力を身につけて」という計画を作って、それに向かって進むというのは、一見するとたしかにスタートが早く計画的な分だけ「アドバンテージ(有利性)」があるようにみえます。しかし、現実には、そのとおりやってみた結果、思ったほど好きでもなければ向いてもいなかったという事実が判明するだけに終わった、ということになるリスクのほうが大きいという可能性は否定できないように思われます。

「自立」「自己責任」という危うさ

 このように、多くの人には自分のやりたい仕事、向いた仕事がなにかという判断のための情報が決定的に不足しているなかでは、「風説」が主張するような「自己責任」や「自立」を追求するのはほとんど無理だと考えるべきでしょう。情報不足でリスクがあるのなら、複数の人が集まって情報を提供しあったり、リスクをシェアしあったりするのが合理的で自然な考え方だからです。
 たとえば、高校生が社会に出るにあたって、自分以上に自分のことを知っているかもしれない親の意見や、経験豊富な進路指導教諭の見解を求めるのは十分に合理的な行動であり、結果として指導にしたがって学校推薦で企業に就職したとしても、それを「依存」と呼んで一律に批判すべきではないのです(もちろん、誰がなんと言おうと自分はこの仕事につきたいのだ、と決意して、自ら売り込んでいくのも自由です)。
 同じように、企業の中でいろいろな仕事を経験しながら、本当に自分のやりたい仕事、向いた仕事を探していくというのも、やはりひとつの合理的な考え方ではないかと思います。現実の仕事を通じて貴重な情報を得られますし、常に一緒に働き、指導にあたっている上司の意見を参考にすることもできます。人事部門のノウハウ(あれば)を活用することもできるでしょう。もちろん、企業である以上は組織の事情は必ず存在し、従業員の自由は制約されます。しかし、近年多くの企業では従業員のキャリア開発に大きな関心を寄せており、配属や人事異動に本人希望を反映させるだけではなく、本人と上司、さらには人事部門も加わって、個人のキャリアプランを検討する制度を持つ企業も増えています。社内FA制度も広がっています。このように整備された枠組みをいかに活用し、どのようなキャリアを実現するかは、つまるところ本人にかかってきます。こうしたなかから、ひとりでも多くの人が本当にやりたい仕事、向いた仕事を見つけ出し、喜びとやりがいをもって働けるようにしていくことが、まさに私たち人事担当者の最も重要な役割のひとつではないでしょうか。それを「風説」は「依存」と呼び、否定の叫びをあげます。これは私たちに対する侮辱に等しいものと思います(もちろん、起業や自営はより自由度が高いでしょうし、そこからはまた違ったものが得られるでしょうが)。
 これに限らず、いまのわが国では物事を一律に「自立」と「依存」に二分し、「自立=善、依存=悪」と決めつける単細胞な二分法が往々にしてみられますが、このような画一的で不毛な議論はそろそろ終わりにしたいものです。

「長期勤続しても労働市場で通用しない」と考える危うさ

 「会社に依存して長期勤続した結果、労働市場でまったく通用しない人材になってしまう」といった主張は、「風説」のなかでもおそらく最も声高にいわれるものでしょう。これには大きくふたつのパターンがあるようです。
 そのひとつは、「長期勤続では市場価値のある能力は形成されない」というもので、倒産やリストラで失業した「中高年」がなかなか再就職できないという話とセットで語られることが多いようです。
 しかし、いま中高年が再就職できないのは、能力がないという以前に、そもそも求人がないという事情のほうがはるかに大きいのではないでしょうか。十数年前の人手不足の時期には、長期勤続の中高年もかなり転職していました。もちろん、能力の形成には個人差も大きいでしょうし、転職すればどうしても新しく覚えなければいけないことや忘れなければいけないことが出てくることは間違いありません。しかし、長期勤続で得た能力は他社に移ると全く役立たない、といわんばかりの主張は事実と異なるでしょう。
 もうひとつのパターンは、技術革新のスピードが速くなっており、長期間かけて能力を蓄積しても陳腐化するから意味がない、という主張です。
 「風説」がイメージする熟練工は、旋盤工や溶接工が経験を重ねることでより速く、より正確に、より美しく仕事ができるようになる、といったものでしょう(「13歳のハローワーク」は、まさに熟練工をこうしたものと描いているようです)。これだと、たしかによほど高度な熟練工でなければ能力の陳腐化は避けられません。
 しかし、企業の現場をみれば、現実は「風説」のいうような単純なものではないことがわかります。現場では、いつ何が起きるかわからないが、しかし必ず起きる日常的な異常や変化に効率的に対応するノウハウ、知的熟練が非常に重要だからです。これには、新技術が導入されて、必要とされる技能が変化することへの対応も当然含まれます。
 いま、各企業で尊敬されている熟練工の多くは、入社直後はほとんど手作業だった職場が、いまや数値制御ロボットやIT機器に囲まれているという大きな変化を経験してきた人たちです。電機メーカーや化学メーカーでは、作る製品も大きく変わってしまったという人も多いでしょう。熟練工とは、こうした大きな変化に対応できる高度な技能を持つ人であり、それが職場の尊敬を集めているのです。

いろいろあっていいはずだ

 読者諸兄には自明なことを長々と書いてきましたが、前にも書いたとおり、「風説」もすべてがおかしいわけではありません。変化はつねにあるのですし、実態は人により、業界や企業により、あるいは職種によってさまざまでしょう。問題にしたいのは、一部の変化を誇大にいい立て、あたかもすべてがそうなる(べきだ)といわんばかりの主張がみられることです。
 考えてもみてください。すべての人が他人に頼らず、自己責任で生きなければいけない社会、13歳で「自分にぴったりの仕事」を見つけなければ不利になる社会なんて、まことに息苦しいではありませんか。
 もちろん、そういう生き方を選ぶことは自由ですし、立派な選択かもしれません。しかし、人それぞれ、いろいろな生き方を選べたほうがいいのではないでしょうか。13歳で自分のやりたい仕事を決めるという生き方でもいいし、とりあえず最初はつらくても我慢して与えられた仕事をやってみて、いずれ面白くなってきたら続けよう、というのも立派な生き方でしょう。どちらが有利かなんて、本当のところはたぶんわからないのですから(ただし、やりたい仕事がわからないからブラブラしている、という生き方は明らかに不利でしょう。許される状況にあるならそれも自由だとは思いますが)。
 でも、おそらくは13歳、18歳、22歳で「自分にぴったりの仕事」を決められない人のほうが多いでしょう。そんな人たちに、私はこういいたい。
「やりたいことがわからなくてもいいんです。それが普通なんです。だから、まずは仕事をしてみませんか。最初はつらくても、いずれ楽しさややりがいがみつかるかもしれません。私たちもお手伝いします。」