(株)日本法令様から、『ビジネスガイド』5月号(通巻886号)をお送りいただきました。いつもありがとうございます。
今回の特集は年金法改正の実務対応、派遣労働者の「労使協定方式」の解説、この2月に発出されたパワハラ通達の解説と非常に盛沢山です。いずれも実務に役立つ時宜を得た記事だと思うのですが、それにしてもこの非常時にこれだけの実務をこなさなければいけないのですから各社の人事担当者もたいへんだなあと同情することしきり。そして八代尚宏先生の連載「経済学で考える人事労務・社会保険」、第3回となる今回は「同一労働同一賃金法と非正社員」について、相変わらずの鋭い論評を展開しておられますので少し詳しめに紹介したいと思います。
まず、日本のいわゆる正社員の賃金体系と非正規雇用の賃金とは全く異なることを説明し、今回の「同一労働同一賃金」はその大きな違いをそのままに企業別労働市場の中での均等化をはかるという「欧米の職種別賃金とは似ても似つかないもの」と指摘します。さらに「勤続年数にかかわらず、個々の社員の仕事内容を明確に定めたうえで、…給与を決めることが、本来の同一労働同一賃金の考え方」と指摘し、それに対し「日本の企業では、…この「職務」という概念に乏しい以上、同一労働同一賃金という概念自体が成り立ち難いのも当然」と断じておられます。
その上で、日本の正社員の職務無限定な働き方の利点も評価しつつ、無限定の正社員と職務給の非正社員の「労・労対立」が課題だといういつもご持論を展開されます。そして、こうした矛盾を抱えた「同一労働同一賃金」は労働市場の機能を阻害し、政府の介入を拡大するという大きな弊害を有すること(この典型的な例が今号の特集にもなっている「派遣労働者の同一労働同一賃金」)、今後の望ましい方向性としては「正社員の働き方を、いわば「無形文化財」のように守ろうとする」のではなく、グローバルな経済社会や日本の労働市場の変化に応じた別の合理的な仕組みへの変化を円滑に進めることを主張しておられます。
とりわけ、はじめの部分でも「たとえ現行の雇用慣行を一気に変えることは無理でも、将来、目指すべき働き方の目標を、グローバル型の同一労働同一賃金とするか否かを明確に示す必要があります。そうした本質的な議論を避けて、単に現行の正社員の働き方を維持するとしていることに、大きな問題点があります」と指摘されていることは重要でしょう。ここからは記事からは離れますが、実は八代先生はすでに(このブログでも過去何度か紹介したように)1997年の名著『日本型雇用慣行の経済学』で以下のように指摘しておられました。すでに20年以上前の本ですが、今読んでも非常に学ぶことの多い名著です。
一般に、「日本的」と称される雇用慣行の特徴としては、長期的な雇用関係(いわゆる終身雇用)、年齢や勤続年数に比例して高まる賃金体系(年功賃金)、企業別に組織された労働組合、などがあげられる。これら企業とその雇用者の間の固定的な関係は、かつては雇用者の企業への忠誠心を確保するメカニズムとして理解された時期もあった。しかし、欧米の企業でも、雇用の固定性は必ずしもめずらしいわけではなく、日本と欧米諸国との雇用慣行の違いは、質的な違いよりも、それがどの程度まで企業間で普及しているかの量的な違いにすぎない。
(八代尚宏(1997)『日本的雇用慣行の経済学』、p.35)
本書は、日本の雇用慣行を含む企業システムが全体として戦略的な補完性をもつため、大幅な革新なしには変わらないという見方に対して、より漸進的な変化の可能性を指摘する。それは、従来の日本的雇用慣行の対象である企業活動のコア的な雇用者の比率が低下し、それを取り巻く流動的な雇用形態の労働者が徐々に高まる「雇用のポートフォリオ」選択の変化である。これは従来の固定的な雇用慣行が不要となるのではなく、むしろその逆を意味する。すなわち、流動的な形態の雇用者の比率が高まるほど、固定的な雇用慣行の対象となるコア労働者の責任は高まるという「労働分業」の進展でもある。
(同、p.252)
まさにこの予言は現在に至るまで漸進的な正社員比率の低下・非正規雇用労働者の増加といった形で実現することになるわけですが、その結果として労働市場の二極化がもたらされました。それが今回の「同一労働同一賃金」の背景にもなっているわけですが、八代先生のご意見は現下の政策のようにこの二極化構造を維持したまま賃金の均等化を進めるのではなく、引き続き漸進的に正社員比率を低下させ、職務給の、(現在のわが国の非正規雇用ではなく、欧米型のより安定的で労働条件も比較的良好な)より「流動的な雇用形態の労働者が徐々に」増えていくことを目指すべきというものでしょう。これには私も同感ですし、多くの労働問題の専門家が共有する見解ではないかと思います。
ただまあこうした方向性に国民的コンセンサスが得られるかというと簡単ではなさそうであり(従来型の正社員を希望する人も多そう)、また残念ながらこの「漸進的」「徐々に」というのが、なるべく早期に目に見える成果(非正規にも賞与とか)を求める政府のニーズには合わなかったというのが実際のところでしょう。そこで短期的に非正規の処遇を改善するための理屈として、大多数の専門家が八代先生と同様に「職務給が普及していない日本の労働市場には同一労働同一賃金はなじまない」と考えているにもかかわらず、「日本でも同一労働同一賃金は可能」という(孤立説に近い)少数説が採用されてしまったという経緯ではなかろうかと思うところです。